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筏道 道中記

(1)六郷から多摩川台公園まで  (2)多摩川台公園から狛江まで  (3)狛江から大國魂神社まで

(3)狛江から大國魂神社 街道地図


筏道の3回目は狛江から品川道に入り 府中の大國魂神社まで。この道は古くから大國魂神社の祭礼に
先だって行われる「汐汲み・お浜降り」の行事を行うために神職が品川まで通った道。また白糸台から
府中競馬場辺りまでは府中崖線のハケ道で、筏師が行き来した道であったことから「いききの道」とも
呼ばれた味わいある道。
筏道は京所道(きょうづみち 大國魂神社の境内を通る道) を通って青梅まで続いていたが、ルートがはっきり
しない部分があるため大國魂神社で終了とした。

令和元年10月28日

小田急線狛江駅高架下を抜けた先の みずほ銀行脇に「だ久らはし」と刻まれた「駄倉橋親柱」(左)が保存されている。 傍らの説明板に「ここに六郷用水に架かる駄倉橋があったが昭和40年(1965)年に六郷用水とともに埋め立てられてしまった」とある。 わずかに残ったのがこの親柱。

みずほ銀行があるビルを回り込み再び品川道に入ると見えたのは5世紀中頃の築造とされる「駄倉塚古墳」(右)。狛江には50基ほどの古墳があったがほとんど消滅。わずかに残った貴重な古墳だが周囲は無残に削られ古墳とは思えない姿になってしまったのが残念。

品川道を10分ほど歩いたら寄り道を。向かった先は「伊豆美神社」(左)。 寛平元年(889)に大國魂神社の御分霊を北谷村に勧請し六所宮として奉斎された古社だが明治元年(1868)に伊豆美神社に改称。

住宅地の中に建てられている「万葉歌碑」(右)にも寄り道を。白河藩主松平定信の書を手習師匠平井董威が 文化2年(1805)に歌碑として建立したが多摩川の洪水で流出。大正11年(1922)に再建されたのがこの万葉歌碑。
 多麻河泊爾 左良須弖豆久利 佐良佐良爾 奈仁曽許能児能 己許太奈之伎 
多摩川に 曝す手作 さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき   万葉集巻十四

品川道に戻りしばらく歩くと立派な祠が見えたが、これは「山谷庚申堂」(左)。江戸時代から続く山谷庚申講が平成5年(1993)に建てたもの。2基の庚申塔が安置されているが右側の庚申塔は宝永元年(1704)のものでちょっと珍しい斧や索を持つ青面金剛。左側の庚申塔は文化元年(1804)の建立。

山谷庚申堂から10分ほど歩くと品川道ならぬ品川通りに合流。更に十数分歩くと歩道際のフェンスの中に椿地蔵が鎮座。その後ろに繁っている椿は「シロハナヤブツバキ」(右)という品種で、樹齢が七~八百年だという。鎌倉時代から生き抜いてきたとは凄いね~

品川通りをもう少し歩くと左へ入る細い道があるが こちらは品川道の旧道。

旧道を数分歩くと「旧品川みち」(左)の標識があり傍らの説明板に『府中に武蔵国府が置かれたころ、相模国から国府に行き来する旅人たちの交通路であるとともに大國魂神社の大祭に用いる清めの海水を運ぶ重要な道であった。近世になると筏乗りたちが帰りに利用していたので「いかだ道」とも呼ばれていた』と記されている。

4~5分で品川通りに合流してしまうが その先10分ほどの道路際に「太田塚」(右)と呼ばれる太田家の墓地がある。 太田道灌の弟資忠が当地石原に布陣した際、地元の石原出雲守の娘をめとり その子孫が太田対島守盛久と名乗ったという。太田家は現在も続く旧家。

太田塚交差点から右に入る細い道があるが これが品川道の旧道。この先は飛田給駅前を通り大國魂神社まで鄙びた旧道が続く。
旧道に入って10分ほど歩いたら「上石原若宮八幡神社」(左下)に寄り道を。

普通は八幡神社の祭神は応神天皇だが この神社はその皇子・仁徳天皇を祀っているので若宮八幡と称している。文化4年(1807)建築の本殿には素晴らしい彫刻が施されているそうだが見ることが出来ないのが残念。慶応4年(明治元年・1868)、甲陽鎮撫隊を率いた近藤勇は上石原村に到着すると神社の方向に拝礼し戦勝を祈願したという。

その「近藤勇像」(右)が西調布駅近くの西光寺にあるというので見に行くことに。京王線の踏切りを渡り旧甲州街道に入るとすぐだ。この渋~い顔がいいね~  西光寺の仁王門(鐘楼門)は宝永年間(1704~10)に建てられたもので二階に吊るされている梵鐘は下野国天明の鋳物師によって享保2年(1717)に鋳造されたもの。


筏道に戻ったら飛田給駅前を通り しばらく歩くと白糸台に入るがこの先は府中崖線のハケ道(冒頭写真)。筏師達が行き来した道であったことから「いききの道」と呼ばれていた。
注:明治初期の地図を見ると飛田給駅から車返諏訪神社辺りまでは街道地図の紫線で示した道が表示されているが現在の地図では消滅している。

いききの道から右へ曲がり「はけた坂」を上ると「車返諏訪神社」(左)が。 創建年は不明だが この辺りに諏訪因幡守の屋敷があり、その鬼門除けに祀られたという説がある。また慶長4年(1599)、豊臣秀吉の五奉行筆頭であった浅野長政が府中在住の家臣・平田家に隠棲していたが その平田家の屋敷神として祀ったという言い伝えもある。

その「浅野長政が隠棲した屋敷跡」(左)がすぐ先の白糸台幼稚園周辺。浅井長政が居住したのは僅か1年ほど、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で東軍に組みし後に家康に使えるようになりこの地を去っている。土地の人によると幼稚園の敷地内に「浅野長政隠棲の地 説明碑」 があるそうだが残念ながら幼稚園関係者以外は見ることができない。

筏道に戻り5~6分、右奥に見えたのは「車返八幡神社」左)。先ほどの神社も 車返? 隣の本願寺山門前に説明碑があり次のように記されている。「源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折り、藤原秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中、夢告があり当地に草庵を結び仏像を安置。車は返したことに由来する」とある

その薬師如来を祀った草庵が後の「本願寺」(右)。 兵火で堂宇を焼失するなどの経緯があったが天正2年(1574)、当地の領主となった徳川家康の家臣宮崎秦重が境内および堂宇を寄進し現在地に移転。このときから八幡山本願寺と称するようになった。

本願寺から10分ほど歩くと京王線の踏切りを渡るが、その手前の下り坂を「まむし坂」(左)という。 なんとも物騒な名前だが傍らの説明碑に「その名のとおり毒蛇のまむしに由来するという。ひと昔前のこのあたりは水田地帯、まむし におびえながら野良仕事をした村人の危険防止のための呼び名かもしれない」とある。

踏切りを渡り道なりに左へ坂道を下ると「溝合神社」(右)という小さな神社がある。祠の中に祀られていたのは2体の庚申塔。庚申塔が祭神とは珍しい、と思ったら上部の額に猿田彦大神とある。

溝合神社から数分、東郷寺通りを横断した向い側の坂道は「かなしい坂」(左)というなんとも切ない名前の上り坂。玉川上水の工事はこの坂に達すると導水した水が全て地面へ浸透してしまった。そのためルート変更が行われたが工事に関わった役人は責任を問われ処刑。その際「かなしい」と嘆いたことから「かなしい坂」と呼ばれるようになったのだとか。

東郷寺通りを下ると東郷平八郎の別荘跡だった場所に東郷平八郎没後の昭和14年(1939)、旧日本海軍関係者によって建立された東郷寺がある。府中崖線の段丘にそびえる「山門」(右)は一般的な山門の倍以上の迫力ある大きさ。映画「羅生門」のセットはこの門をモデルにしたという。

東郷寺通りを少し下り右へ入る細い道が旧道の筏道。右へ曲がってハケ道を10分ほど歩くと道路際に小さな鳥居があるが、その下は大國魂神社の境外末社「瀧神社」(左)。その名のごとく神社東側に府中崖線から湧き出る滝がある。大國魂神社の大祭では神事の前に神職や神馬がこの滝で身を清めるという神聖な場所だ。

ハケ道が終わった府中競馬場前にあったのは「いききのみち碑」(右)。かつて筏師達が行き来した古い街道の面影残るこの道は旧甲州街道以前の甲州古道で府中を経て甲州の国府まで続いていた。

筏道は「いききのみち碑」の前で府中競馬場前の広い道に合流し その先で馬坂を上って府中競馬場正門前駅を通り京所道に入るのだが、ちょっと寄り道を。

向かった先は「武蔵国府八幡宮」(左)。聖武天皇(724~749)の御代、一国一社の八幡宮として創立された古社。現在は大國魂神社の境外末社で小さな神社だが、荘厳な雰囲気は境外末社とは思えない。

「大國魂神社」(右)に到着です。第十二代景行天皇41年(111)5月5日に大國魂大神がこの地に降臨、それを祀った社が起源とされる古社中の古社。 大化の改新(645)のとき境内に国府が置かれたが、この時、国内諸神を配祀、これが総社の起源とされている。
大國魂神社はいつ来ても参拝者が絶えない。

京所道を通って大國魂神社に入ったが筏道はこの先も青梅まで続く。残念ながらこの先のルートがはっきりしない部分があるのでここで終了とした。

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