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五日市街道  道中記

①梅里から小金井公園②小金井公園から砂川七番③砂川七番から福生④福生から五日市

③ 砂川七播から福生 街道地図

砂川辺りは武蔵野の風景を代表するケヤキの大木が街道沿いの随所で見られる。かつては屋敷林としてのケヤキ並木が延々と続き、
葉の繁る夏場はまるでもぐらの穴を歩いているようなので もぐら街道 とも呼ばれていた。五日市街道特有の景色と言えるだろう。
この先も彼方まで直線道路。ところが米軍横田基地の金網フェンスが行く手を阻んでいる。ここは大きく迂回しなければならない。

 平成26年12月10日

今回のスタートは「芋窪街道との交差点(砂川七番交差点)(左)から。 
芋窪村(現・東大和市)に通じる街道なので芋窪街道。変わった名前の村だが かつては湧水のある窪地だったことから 井の窪村 と呼ばれ いつしか芋窪村に。

街道際に 「特産品 東京うど」(右) と記された看板が。この辺りはシャキッとしてほろ苦いウドの産地。酢味噌和えが旨いんだな~

ほどなく「阿豆左味(あずさみ)天神社」(左)に到着。新田開発が行われた寛永6年(1629)頃、村の鎮守として殿ヶ谷(現・瑞穂町)の阿豆左味天神社より勧請したという。

「拝殿」(右)は文久2年(1862)の竣工で総けやき造りの豪華なもの。 本殿はそれより古く元文3年(1738)頃の建築で立川市内最古の木造建築。だが残念ながら覆屋の中なので見ることはできない。

拝殿の右方に小さな神社があるが、こちらは「摂社」(左)。 一つの社殿にいろいろな神様が同居?。
その摂社とは、蚕影神社・八雲神社・疱瘡神社・稲荷神社・天神社・御嶽神社・浅間神社・金刀比羅神社・八坂大神社。 ここにお参りすれば全ての願いを聞いてくれそうだ。 中でも変わっているのが蚕影神社。

またの名を猫返し神社と呼び狛犬ならぬ「狛猫」(右)が。猫は蚕の敵であるネズミを退治することから守り神としているが ここにお参りすると迷い猫が帰ってきたり病気の猫が治ったり。愛猫家にはありがたい狛猫だ。

神社隣の古民家は「旧宮崎家」(左)。 
入口の庶民教育記念之詩(説明板)によると阿豆佐味神社の神官 宮崎常次郎は深く学問を愛し、自分の屋敷内に寺子屋を開いて(現・多摩信砂川支所在地)近隣の子供たちに手習いを教えたという。

阿豆佐味神社から10分ほど先の街道左奥に竜泉寺の立派な山門が見えるのでちょっと寄り道を。山門を入り本堂まで歩くと思い思いの姿の「羅漢様」(右)が。五百羅漢とまではいかないが見事な眺めだ。

流泉寺の斜め向う側、ケヤキの大木と生垣に囲まれたお屋敷は旧名主の「砂川家」(左)。 生垣の間を入らせてもらうと樹木の向うに立派な屋敷門が見える。砂川家は砂川新田の開発名主で、後に玉川上水の見回り役を務めている。その関係か否かは分からないが玉川上水を分水した砂川分水が砂川家の敷地内を流れており かつては水車を回していたという。

その分水が屋敷門の前を流れており、そこに架けられている橋は今では滅多に見られなくなった「石橋」(右)。

砂川家の脇を通って4~5分、小川水衛所で別れた「玉川上水」(左)に再び巡りあうことができる。両岸の大木は桜。 満開の頃は見事な花見ができることだろう。

ここに架かる橋を「見影橋」(右)と言うが江戸時代から橋が架けられており砂川村の4番目の橋だったので 四ノ橋 と呼ばれ 名主宅に近いことから 旦那橋とも呼ばれていたとか。
砂川分水は橋の袂に設けられた源五右衛門分水取水口から取り入れられたもので今でもその取水口跡が見られる。

街道に戻り十数分、水が流れていない川を渡るがこの川は「残堀川」(左)。地図を見ると、なんと玉川上水と直交しているではないか。幾多の変遷があったようだが今は残堀川の下をサイフォンの原理で玉川上水が流れている。かつては度々洪水を起こした残堀川も今は 堀だけが残る川 と言われるようになってしまった。

街道の突き当りに見える小さな祠は地元の人が天王様と呼ぶ「八雲神社」(右)。ここに道標を兼ねた地蔵菩薩が鎮座しており側面に「左伊奈道」と刻まれている。かつては街道沿いにあったのだろう。

五日市街道はここで天王橋を渡って玉川上水の北側へ。玉川上水を橋で渡るのは喜平橋以来2度目になる。

天王橋を渡ったら左に曲がり西武拝島線のガード下を通って30分、現・五日市街道は大きく左に曲がっていくが「旧道」(左)は真っ直ぐ進んでいく。

旧道に入ると急に静かな街道に。この辺りはケヤキの大木が街道の両側に残っておりモグラ街道と言われたころの風景が少しだけ感じられる。夏場だったら鬱蒼と繁ったケヤキの下を歩けただろう。

旧道に入って数分歩くとここにも「阿豆佐味天神社」(左)が。この神社は殿ヶ谷新田の鎮守として瑞穂町の阿豆佐味天神社を勧請して享保3年(1718)ごろ創建。

境内の入口に据えられている石碑は「殿ヶ谷分水跡碑」(右)。享保5年(1720)、玉川上水より分水しこの辺り一帯の水田を潤した水の流れも昭和44年(1969)にその姿を消してしまった。

天神社の入口横に鎮座している石塔は「馬頭観音と庚申塔」(左)。庚申塔は明和元年(1764)のもの。

その先の林泉寺は新田開発に伴い建立された寺で創建は林泉寺誌によると享保18年(1734)とされている。

林泉寺入口の隣に みどりの美術館 と記された看板があるのでちょっと寄り道を。庭に「緑色のワンちゃん」(右)が。その他にも木を刈り込んで様々な造形物を作り展示。

10分ほど歩くと街道が金網フェンスに囲まれるようになり ついにL字型に左へ曲がってしまう。五日市街道の特徴だった直線道路が「米軍横田基地」(左)によって分断されてしまったのだ。
元は帝国陸軍立川飛行場の付属施設。戦後、米軍に接収され飛行場が拡張された際、街道を分断。

迂回路を40分ほどテクテクと歩くことに。到着した場所は第五ゲート前。ここに「US AIR FORCE」(右)と看板が出ている。五日市街道はここから復帰。再び街道旅を。

【2】小金井公園前に戻る  【4】福生(横田基地ゲート前)から   表紙へ戻る