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五日市街道  道中記

①梅里から小金井公園②小金井公園から砂川七番③砂川七番から福生④福生から五日市

④福生から五日市 街道地図

福生の横田基地第五ゲート前から復活した五日市街道は地蔵坂、大坂を下って多摩川を渡り、突抜坂の急坂を上って秋留台地に。
その先は所々に残る旧道を探し神社仏閣に寄り道しながら五日市街道の終点、JR武蔵五日市駅前までの旅である。

平成26年12月27日

横田基地をグルっと半周、復活した五日市街道に入り青梅線の踏切を渡って福生市民会館横の「地蔵坂」(左)を下って行くのだが ここでちょっと探し物を。

市民会館前に道標があるということで探したのだが これがなかなか見つからんのです。
やっと探し当てたのが福生公園とさくら会館の間にあった自然石の「道標」(右)。文字の刻みが薄いため遠目にはただの石に見えたのだが「右江戸 ・・・・・」という文字がかろうじて読める。
 

地蔵坂を下って10分ほど歩くとちょっと古風な「牛浜橋」(左)があるが この下を流れる川は玉川上水。五日市街道を歩いて玉川上水を渡るのは3回目。

牛浜橋は元々は木橋だったが馬車や牛車の往来のため傷みが激しかった。そこで、明治10年(1877)に石造りの めがね橋 を架橋。現在の橋は昭和53年(1978)に旧橋の景観を取り入れて架け替えられたもの。

橋を渡った先の奥多摩街道を横断すると急な下り坂。この坂を「大坂」(右)と呼び、下った先は多摩川の河川敷。

河川敷は広々とした公園。その中ほどに「石濱渡津(としん)跡碑」(左)と説明標柱が建てられている。 渡津=渡し場
説明標柱によると「足利尊氏は観応3年(1352)、新田勢と対戦、しかし苦戦を強いられ石浜にのがれたが その石浜 は 牛浜 である説が古くからある」というのだ。 

旧五日市街道はこの辺りから多摩川を渡り対岸の「突抜坂」(右)を上ったのだが今は500mほど上流の多摩橋を渡っていく。多摩橋を渡り次の多西橋を渡ったら平沢交差点を左に曲がるとほどなく「突抜坂」(右)。ここに庚申塔と地蔵が。

突抜坂を上り切った先の二宮本宿交差点辺りは宿場があった場所。並行した北側の道には北宿があったが共に面影は全く感じられない。.

広くなった五日市街道を数分歩いたらちょっと寄り道を。向かった先は天正15年(1587)創建という廣済寺。
ここには江戸時代を代表する民政家の一人「田中丘隅回向墓」(左)がある。著述した民間省要 が将軍吉宗上覧に達したことを契機に地方役人に抜擢。武蔵国の幕領支配にもあたっていた。

本堂前に「お手玉石」(右)なる大石が。玉川上水の工事に加わった力持ちの男が工事の帰り道、この石を片手で高くほうり上げながら家まで持って帰ったという。以来、お手玉石と。

この先も街道に戻らずもう少し寄り道を。

十字路の際にあったのは「庚申供養塔」(左)。傷みがちょっと激しいが柵で囲われ大事にされているようだ。

街道に戻る途中に玉泉寺にも寄り道を。元禄4年(1691)の建築と伝えられる朱鮮やかな仁王門を入ると醤油の仕込み樽に入った「大樽平和観音」(右)が鎮座。 ? ちょっと傾いているかな。

街道まで戻ったら二宮神社前交差点を横断してもう一か所寄り道を。

向かった先は「二宮神社」(左)。由緒によると創建年代は不詳ながら、藤原秀郷が天慶の乱(平安時代中期・平将門・藤原純友の乱)平定のための戦勝祈願をこの神社で行ったとされている。

神社の横に柵で囲われ大事にされている竹があるが これは農作物の豊凶を占う筒粥神事に使われる「篠竹」(右)。神事が行われるのは小正月の1月15日。この日はどんど焼きも行われるので近郷近在の善男善女が集まり大変な賑わい。

街道に戻り5~6分、住宅が途切れた先は広々とした秋留台地の畑が広がる「長閑な景色」(左)。その中を五日市街道が通っている。車の通行がちょっと多いのが気になるが気分晴々。

秋留台公園の前を通りあきる野市役所前まできたらちょっと寄り道を。
街道から数分歩いた奥にあるのは「大塚古墳」(右)。東京都指定の旧跡だが最近の発掘調査では古墳ではなく塚の可能性もあるのだとか。考古学って奥が深いね~

大塚古墳から街道に戻りJR秋川駅前を通り過ぎ五日市線を横断、5~6分歩くと旧道が僅かな区間だが残っているので旧道を。

現・五日市街道に戻り数分、こんどは右側に「旧道」(左)が残っている。こちらは7~8分の距離だが崖の下を通る細い道が旧道の雰囲気たっぷり

現・五日市街道に合流したら横断して寄り道を。
住宅地の中を5~6分、着いた場所は出雲大社ならぬ「出雲神社」(右)。由緒によると「昔々、出雲の国の杵築神社(出雲大社)から遷座いたしました」とある。

出雲神社からもう少し足を延ばすと「小さな御堂」(左)があったので覗いてみると如意輪観音が鎮座。スッキリした御姿だが顔の回りと胸のあたりの修復跡が痛々しい。

観音堂の斜め前にある開戸センターの奥庭で「渕上の石積み井戸」(右)が見られる。
地面をすり鉢状に掘り進み螺旋状の道を付けた石積みの井戸で、中世(平安時代末期から安土桃山時代)に構築されたと推定されている。発掘・復元されたものであるが今でも使われていそうな。

出雲神社の前まで戻りもう少し寄り道を。向かった先は寛平3年(891)の創建という真照寺。

「山門」(左)は比較的新しく見えるが元禄元年(1688)に建立されたという古建築。本柱の前後に控え柱を持つ四脚門で朱の彩色が施されていることから赤門とも呼ばれている。

山門を入ると正面の高台に見えるのは「薬師堂」(右)。
この薬師堂は室町時代の建立と考えられているが寛平3年(891)造立時の柱等を使って再建したのだという。寺には延文元年(1356)の関東管領足利基氏建立の棟札写しが保存されている。

真照寺山門前の道を真っ直ぐ南に向かうとサマーランドの大観覧車が見えるが、その右側の絶壁は東京都の天然記念物に指定された「六枚屏風岩」(左)。
秋川沿いの崖が崩れ六枚の屏風を立掛けたように見えるところからこの名が。

街道に戻る途中、ワン、ワンと呼ぶ声が。
広い庭の奥でワンちゃんがじっとこちらを見ているので思わず1枚。可愛いね~

街道に戻り10分ほど歩くと旧道が生活道路として200mほど残されている。さらにその先十数分、今度は右に入る細い道が旧道。
旧道に入る前に山田交差点を左に曲がって寄り道を。

山田大橋の下に鎮座するのは「山田八幡神社」(左)は文和年間(1352~55)、足利尊氏の家人・景山定兼が建てた神社。
参道に球形道祖神がありました。甲州街道・栗原宿あたりでよく見かけたが この辺では珍しい。

八幡神社に並ぶ「瑞雲寺」(右)の開基は足利尊氏の子である基氏の母によるものという寺伝がある。 この伝承を裏付けるものとして足利尊氏坐像が寺に残されているそうだ。

山田交差点まで戻りさらに一本北側の細い道に入ると そこは鄙びた雰囲気の「旧道」(左)。増戸小・中学校の校庭前を通って増戸会館先の突き当りを左に曲がると現・五日市街道に合流。この辺りは伊奈宿の新宿があった場所で 現・五日市街道に合流した辺りが上宿だったが今は往時の面影を感じることはできない。

増戸会館の隣に「塩地蔵堂」(右)があり 中に3体の地蔵尊が鎮座。詳しいことは分からない。

現・五日市街道に合流した先のバス停・伊奈坂上前に小さな祠があるがこれは「伊奈の市神様」(左)。伊奈村の市の守り神であるこの祠は寛文2年(1662)の建立。地元産の伊奈石で造られている。

その先の交差点を右に入る道が旧道で数分歩くと「岩走神社」(右)に到着。正月直前ということで茅の輪がありました。
当神社は平安末期、信州の石工たちが移り住んで一村を開き戸隠神社の手力男命(たじからおのみこと)を勧請して創建。本殿の彫刻が素晴らしいが金網の中であるため写真映りが悪い。残念!

神社を出たらそのまま車道を進んで行きたくなるが「旧道は一本下の道」(左)。細い道を下って秋川沿いを歩くことに。

4~5分歩いたら寄り道を。右に曲がって坂道を上がり車道を横断して長い階段を上ると「大悲願寺仁王門」(右)。
最初に仁王門が建てられたのは慶長18年(1613)だが現在の仁王門は安政6年(1859)の建造。天井絵は幕末期の絵師・藤原善信、森田五水によって描かれたもの。

大悲願寺は源頼朝の命により源平合戦で名を馳せた武将・平山季重が京都醍醐寺の澄秀僧正を招いて建久2年(1191)に開山したという古刹。山裾に静かに佇む寺院であるが
文化財の宝庫で見どころがが多い。

仁王門を入った正面の「観音堂」(左)が素晴らしい。寛政6年(1794)の建立だが彩色が施された彫刻が軒下ぐるりを囲っている。正面軒下には弁天様?が琵琶ならぬ琴を爪弾いているではないか。

鐘楼に下がる「梵鐘」(右)は八王子の冶工・加藤五郎衛門が寛文12年(1672)に鋳造したもので江戸時代は時の鐘として村人に親しまれていた。第二次大戦時の供出を免れたという幸運な梵鐘である。

「本堂」(左)は元禄8年(1695)の建築というから300年以上前に建てられたもの。12名の大工と14名の木挽きにより造られたということだが余分な装飾が無くスッキリした外観は古臭さが全く感じられない。

本堂前の「朱雀門(中門)(右)は安永9年(1780)に建てられたもの。本柱の前後に控柱を持つ四脚(よつあし)門で正面軒下には見事な龍の彫り物が施されている。

萩の寺としても知られているが仙台藩主・伊達政宗も訪れて白萩に感嘆。一株譲って欲しい旨の書簡を当寺に送ったとか。

帰りは階段を避けてあきる野百景の一つである「五輪坂」(左)を下って行くことに。途中に坂の名前の元になった五輪塔と五輪地蔵があるのだが五輪ならぬ二輪塔になってしまったのが残念。

坂を下りきると岩走神社の前で別れた道に合流。大悲願寺へ行くために分かれた旧道ともここで合流。
その合流点に庚申塔や地蔵などの「石仏」(右)が整然と並んでいる。

合流点を右に曲がり(旧道を歩いてきた場合は左へ曲がる)4~5分、現・五日市街道まできたら横断して正光寺の手前を右に曲がる道が旧道。

旧道を道なりに歩き再び現・五日市街道に合流したらその先が五日市街道終点の「JR武蔵五日市駅前」(左)。

駅前に五日市街道の起終点に関する何かないかと探したが何も見つからんのです。せめてあったのが現・五日市街道のスタート点を表す「道路案内標識」(右)のみでした。

ここまで来たのでもう一か所寄り道を。 ちょっと遠いが あきる野市 の語源ともなった阿伎留神社まで足を延ばしてみることに。

駅前から左に曲がり檜原(ひのはら)街道の緩い坂道を上っていくと五日市ひろば前に「五日市の市神様」(左)が鎮座。自然石そのままの市神様はかつては市(いち)の中心に祀られていた。

15分ほど歩いて「阿伎留神社」(右)に到着。創立起源は不詳だが延喜式神名帳に 武蔵国多摩郡八座 の筆頭に記載されていることから千年以上の歴史を持つ古社。
藤原秀郷が戦勝祈願したと伝わり源頼朝、足利尊氏などが社領を寄進したという。今も秋の例大祭は盛大に行われている。

五日市街道最後の旅では街道上の距離は11kmほどだが寄り道が多かったことから3万2千歩(約22km)も歩いてしまった。しかし見どころが多く充実した街道歩きであった。

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