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中原街道  道中記

@桜田門から五反田A五反田から丸子の渡しB丸子の渡しから中山 C中山から桜ケ丘 D桜ケ丘から寒川 E寒川から中原御殿

中原街道B
丸子の渡し から中山まで                       街道地図
多摩川に架かる丸子橋を渡り神奈川県に入ると、さっそく屋敷門や旧名主の長屋門、さらには第二代将軍秀忠が
建てた小杉御殿跡や陣屋跡、あるいは二ヶ領用水、また路傍の 庚申塔・地蔵尊など江戸時代の息吹をたっぷり
堪能できる。
その先も街道沿いに石仏や石塔が多く残されており楽しめる古街道だ。

平成27年10月22日

中原街道の旅 第3回目は神奈川県側の丸子の渡し跡から。

丸子橋の川崎側から土手道を下流方向へ100mほど歩くとステンレス製の「丸子の渡し碑」(左)が据えられている。

土手を下って丸子橋交差点を渡り東横線のガードを潜るとその先は小杉陣屋町。さっそく目を引くのが「旧原家の陣屋門」(右)。原家は肥料問屋から家業を拡大させた小杉陣屋町の豪商。明治時代に総欅造りの母屋を完成させている。この母屋は多摩区の民家園に移築されたが写真の陣屋門は当時のもの。

原家屋敷門のすぐ先、右奥に見えるのは「安藤家長屋門」(左)。 小杉村の割元名主であった安藤家が幕末ごろに建てた長屋門は総欅造りの豪華なもの。外からだと全容が見られないのが残念。

その先に「旧石橋醤油」(右)の古民家が見える。創業は明治3年(1870)だが本格的に始めたのは大正時代。キッコー文山の商標は大変な人気だったそうだが昭和26年(1951)に操業を終えている。

数分歩くと街道は左へ曲がり すぐに右へ曲がっていく。地元では「カギの道」と呼んでいるが、ここは小杉御殿の表門跡。傍らの石碑は徳川将軍小杉御殿跡碑

ここでは左に曲がらず右に曲がって寄り道を。
数分先の路地奥にあったのは「小杉御殿の御主殿跡」(左)。 二代将軍秀忠が建てた小杉御殿は家康の送迎や鷹狩の休息所に利用されたが東海道が主街道になると廃止。今は小さな神社があるだけ。

もう少し寄り道を。さらに数分歩くと「小杉陣屋跡」(右)があるが ここにも小さな神社が。家康の命を受けた代官小泉次太夫はここに陣屋を設け14年の歳月をかけて二ヶ領用水、六郷用水を完成。

カギの道の手前を右にも左にも曲がらず参道を真っ直ぐ進むと突き当りが「西明寺」(左)。
弘法大師が東国御巡錫の折り、高弟泰範上人に命じて堂宇を建立したのが始まりという古刹。小杉御殿の隣にあり江戸時代には将軍家の崇敬を受け寺領10石の御朱印状を賜っている。

もう少し奥の「小杉神社」(右)にも寄り道を。 元々は小杉村の鎮守であった杉山神社に神明神社と総社権現を合祀して小杉神社と改称。拝殿に掲げられている扁額は有栖川宮熾仁親王のご親筆だという。

カギの道まで戻って再び街道旅を。

バス停後ろの石塔は「小杉駅供養塔道標」(左)。左側面に稲毛領小杉駅と刻まれたこの供養塔の台座部分は道標になっており「東江戸・西中原 道」とある。中原とはもちろん中原御殿がある場所のこと。
  
供養塔から数分、丁字路際の祠は「油屋の庚申塔」(右)。かつては油屋の屋号を持つ家の角だったが今はマンションの角。庚申塔の前の道は大師道で この先で府中街道に合流し川崎大師へ。

中原街道はその先で神地(ごうじ)橋を渡るが下を流れる川は「二ヶ領用水」(左)。稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水の恵みを受けて育った米は良質で稲毛米として江戸の人々に大変喜ばれたという。

その先の「泉澤寺」(右)は戦国時代の豪族・吉良氏の菩提寺として延徳3年(1491)に旧多摩郡烏山に創建されたのが始まり。火災で堂宇が焼失したため天文19年(1550)に現在地へ移転。
川崎市の重要歴史記念物に指定されている本堂は安永7年(1778)に再建されたもの。その他にも文化財の多い寺だ。

街道に戻り数分歩いた場所は「旧中原村役場跡」(左)。
説明板によると 明治22年(1889)、市町村制の施行で誕生した村の名前を 中原街道にちなんで『中原村』に。
中原街道を丸子橋から岩川橋まで実測し真ん中に役場を建てたのが今の場所。

5分ほど先の左へ入る道は二ヶ領用水の支流「木月堀跡」(右)。今は暗渠となりその上は歩道に。木月堀の右側は名主だった原家の屋敷だが繁った木々に囲まれていたことからくらやみと呼ばれていたとか。

街道沿いには小さな祠が点在しているのでまとめて紹介。

JR南武線の高架下を通って4〜5分、街道脇の鳥居を潜った奥は「大戸神社」(左)。永正年中(1504〜21)に吉良家の領地である下小田中村に信濃国戸穏大明神を勧請。後に大戸神社に改称。
この神社の狛犬が変わっている。なんと砲弾を抱えた狛犬はここだけだろう。日露戦争に関係しているのだろうか。

ほどなく「江川(えがわ)(右)と呼ばれる小川を渡るが、ここはかつての二ヶ領用水根方堀跡。旧中原村は丸子の渡しからここに架かっていた岩川橋までであった。

5分ほど歩き千年(ちとせ)交差点を渡ったら旧道の「蟻山坂」(左)を上っていく。 中原街道が別名 「こやし街道」 と呼ばれた時代、人糞を満載した荷車は大変な難儀をしてこの坂を越えていた。昭和24年(1949)に10mほど掘り下げられた新道が完成し難儀が解消されたが その時の記念碑が新道のバス停近くに設置されている。

蟻山坂を上ったら いったん新道に出てすぐに左の旧道に入って行く。
ここに天照皇大神や青面金剛、地蔵尊などの「石仏・石塔群」(右)が。新道建設の際、ここに集められたのだろう。

旧道を出て新道に合流したらちょっと寄り道を。

向かった先は「能満寺」(左)。元々は影向寺の塔頭十二坊のひとつとして僧・行基が創建したと伝えられる古刹。天文年間(1532〜54)にこの地へ移転。現在の本堂が建立されたのは元文4年(1739)

能満寺脇の坂を上って影向寺(ようごうじ)にも寄り道を。こちらの寺院は聖武天皇の命を受けた僧・行基によって天平12年(740)に開創。境内左手の「薬師堂」(右)は元禄7年(1694)の建立。
境内の東南隅にある影向石なる霊石は奈良時代に本寺建設のときに建てられた塔の心礎なのだとか。

街道に戻って野川橋を渡り くぬぎ坂を上ったらまたまた寄り道を。

向かった先は妙法寺。元禄の頃、重い年貢を取り立てる領主・佐橋内蔵之助はさらに年貢を100石加増。村人たちはついに佐橋に直訴すべく江戸へ向かったが次々に捕えられ19人が殺されたという。供養のために建てた地蔵はいつの頃からか「義民地蔵」(左)と呼ばれるように。

坂道が多い街道だが、今度は道中坂を下る途中の小さな覆堂は「鎌田堂」(右)。かつて、鎌田兵衛正清の館があったので鎌田堂と言うのだが覆堂の中に安置されているのは子育て地蔵。

街道はその先の道中坂下で僅かな区間であるが旧道を通り、さらに向坂から先はしばらく旧道歩きが続く。

向坂から旧道に入り4〜5分、階段上の御堂は「のちめ不動」(左)。文久2年(1864)のこと、のちめの住人が八王子からお不動様を背負って帰り この地に祀って七世代にわたり守ってきたという。

各幅された中原街道に合流すると「山田神社参道」(右)があるが拝殿までは何回も階段を上り何回も鳥居を潜っていく。
五分ほど歩き拝殿に到着。明治43年(1910)に周辺の諏訪神社や神明社など八社を妙見社に合祀して山田神社に改称。因みに諏訪神社は貞観2年(860)、妙見社は文政2年(1445)の創建と伝わる古社。

広くなった中原街道を歩いていると中川中学グラウンド前に嘉永4年(1851)建立の馬頭観音がひっそりと立っている。その先で再び旧道へ。

しばらく歩くと「十字路の先から旧道の上り坂」(左)。この坂道はなかなか良い雰囲気だが坂を上りきると突然目の前に巨大がマンションが。残念ながらこの先の旧道は消滅。国土地理院の1974年航空写真を見ると旧道がしっかりと映っているが今は消滅。ここは一旦 現・中原街道へ。

ついでに関家住宅へ寄り道を。 
国指定重要文化財の関家住宅主屋は1600年代前半の建築とされ関東地方最古。書院、長屋門も江戸時代の建築。現在も生活の場となっているため一般公開はされていない。 

港北ニュータウンの中を歩いて大塚原交差点から再び中原街道へ。

この先の中原街道も各幅され旧街道の面影はほとんど残っていないが庚申塔や地蔵尊は結構多く残っている。
正徳4年(1714)建立の庚申塔。
原庭バス停の近くにある。
最近造られた馬頭観音の後ろに古い
馬頭観音がある。年代は不明
開戸交差点を左に20mほど入った場所の
路傍にある。
庚申塔は文化3年(1805)の建立。

三猿の上に地蔵が乗るという珍しい
庚申塔。
滝ケ谷戸バス停の後ろにある。
上り側の滝ケ谷戸バス停横にある。 東漸寺入口の路地に鎮座している。 佐江戸交差点を越えた先にある。

いつの間にか狭くなった中原街道から路地に入ると地蔵尊が数体。その先の階段を上った「東漸寺」(左)は天平16年(744)に僧行基が草庵を結び文殊菩薩を造顕奉安したのが始まりと伝わる古刹。

街道に戻りちょっと歩くと「佐江戸交差点」(右)。この辺りに継立場があったが今はその痕跡を探すことはできない。
佐江戸という地名は地元の古老の話によると「元は西戸と書かれたが江戸の左にあるので左江戸となり佐江戸になった」。

佐江戸交差点から4〜5分歩いた先の十字路を左に入り数分、杉山神社参道脇の石碑は「震災復興の碑」(左)。
「大正12年9月1日関東之地大震・・・・」で始まる碑文は関東大震災で被災した杉山神社を里人が協力して復興させたことが綴られている。

街道の十字路まで戻ると「二十三夜塔と双体道祖神」(右)が並んで祀られいるが、この変ではちょっと珍しい。

その先5〜6分、緑産業道路と合流する右手の祠に 街道辻の地蔵様と呼ばれる「地蔵尊(左)が2体。ここの交差点名が地蔵尊前、バス停も地蔵尊前、影響力の大きい地蔵様だ。

この先で「鶴見川」(右)に架かる落合橋を渡って中山町へ。
「鶴を見る」とは風流な名前の川だが、かつては氾濫を繰り返し周辺住民から恐れられた川であった。

鶴見川を渡って4〜5分、駐車場脇に「石仏・石塔」(左)があるのだが風化がかなり激しい。右側は地神供養塔と読めるが左側はかろうじて石仏と分かるだけ。しかし大切にされているようだ。

ほどなく宮の下交差点に到着。本日の街道歩きはここまで。

JR中山駅に向かう途中、長泉寺の門前で見かけた「庚申塔」(右)は元禄6年(1639)に造立されたものだが三猿の上に青面金剛が乗るという正統派の庚申塔。

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