表紙へ戻る


中原街道  道中記

@桜田門から五反田A五反田から丸子の渡しB丸子の渡しから中山 C中山から桜ケ丘 D桜ケ丘から寒川 E寒川から中原御殿

中原街道E
寒川から中原御殿まで
街道地図
田村の渡しで相模川を越えた中原街道は田村十字路で左に曲がりしばらくは旧道を歩くことが出来る。
しかし、その先は大規模な耕地整理が行われたためほぼ消滅状態。わずかに残る旧道を探して歩くのも
楽しみの一つだ。
中原御殿跡の少し先に御殿の裏門と伝わる門があるのでそこまで歩いて中原街道の旅を終わりとする。

平成27年12月8日

中原街道の旅、最終回は寒川から。 ここまで来たのでちょっと遠いが相模国一之宮寒川神社にお参りを。

県道47号大門踏切り前からJR相模線の踏切を渡った目の前は「一の鳥居」(左)。 その先は長〜い参道を歩くのだが うっそうとした林の中に真っ直ぐ続く参道はなんとも気持ちが良い。
二の鳥居、三の鳥居を潜り、神門を通ってやっと「御社殿」(右)に到着。

寒川神社はおよそ1600年前、雄略天皇の御代に奉幣されたという古社で、関八州鎮護の守り神として崇められてきた。 源頼朝、小田原北条氏、武田信玄などの信仰も篤かったという。

寒川神社のお参りも済んだので一の鳥居まで戻り廃線跡の遊歩道を通って再び街道旅へ。

街道へ戻ってすぐの「一之宮不動堂」(左)に鎮座している不動像は江戸時代初期の作で、胎内納入名札に宝暦3年(1753)に江戸芝口の初音屋平吉が修理したと記されているという。
ここは大山詣での旅人で賑わった場所。不動堂前の不動明王道標に刻まれた文字は「右大山道 左江戸道」。

街道はこの先で右に曲がり目久尻川を渡って圏央道の橋脚下を歩くのだが この道がなんとも殺風景。この先あたりに田村の渡しがあったのだが場所がはっきりしない。ほどなく神川橋で相模川を越えていく。

神川橋を渡り土手を60mほど下流に歩くと「田村の渡し跡碑」(左)が見られる。中原街道と大山道の二つの往還の渡しだった田村の渡しは神川橋が開通する昭和28年(1953)まで庶民の足であった。

次に向かった先は「田村八坂神社」(右)。由緒は不明だが蝦夷(えみし)征伐に向かった坂上田村麻呂が当社に戦勝祈願を行ったと伝えられる古社。明治の神仏分離令により八坂神社に改名。

八坂神社入口交差点を左に入りちょっと寄り道を。 数分先の宮の前団地前に「三浦義村 田村の館跡碑」(左)が建てられているが ここは鎌倉御家人・三浦義村の居館があった場所。

街道に戻り田村十字路まで来ると「十王堂跡」(右)があり石碑が建てられている。天文6年(1537)、相模川で起きた小田原北条氏と川越・上杉氏の合戦の戦死者を弔うため十王堂一宇が建てられた。この十字路は八王子道と交差する場所。
右大山道・・・・と刻まれた道標が建てられているが田村の宿とも呼ばれ賑わった場所であった。

田村十字路を左折、この先しばらくは旧道が続く。

ほどなく見えたのは「田村駒返橋跡碑」(左)と道祖神の祠。この場所は古くから馬継の場であったことから駒返し橋と。
こんな逸話がある。天正18年(1590)、徳川家康が鷹狩でこの地を訪れたとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので田村の人達が畳を出して運行の便宜を図ったのだが家康はこの人達の苦労を思んばかってここで馬を返したという。

駒返橋跡碑の横を入った奥に見えるのは「妙楽寺山門」(右)。妙楽寺は足利尊氏の子である足利基氏の開基で開山は夢想国師の弟子・義堂周信。

街道に戻り5〜6分歩くとバス停鹿見堂橋前で道が二手に分かれるが右側の細い道が「中原街道旧道」(左)。
分かれ道際に建てられた「一里塚跡碑」(右)に「南 中原道 北 奥州道 ゑの木需一里塚 跡」と刻まれている。説明板によると 「この道は平塚で最も古い道で、平安の昔の奥州道であった」。

鹿御堂という地名のことだが、四之宮公民館1月号(2015・1)だよりによると「徳川家康が鷹狩に来てお堂で休憩をしたときに鹿を見たので この御堂を鹿見堂といったと言い伝えられている」。

旧道はほどなく国道129号に合流し その先は消滅状態。 そこで脇道に入ってちょっと寄り道を。

向かった先は「前鳥(さきどり)神社」(左)。歴史は大変に古く奈良時代以前、第15代応神天皇の皇太子莵道雅郎子がこの地に移り住み 後にこれを祭神として祀ったという。

ここまで来たので「四之宮の渡し跡」(右)も見ておくことに。
神社脇の道を相模川方向に歩き土手下まで来ると四之宮の渡し説明板が建てられている。 それによると この渡しは対岸の農地へ渡るために設けられたもので昭和30年(1955)頃まで使われていた。

大規模な耕地整理で壊滅状態の中原街道であるが旧道が残っている部分が何カ所かある。
その一つが鹿見堂橋の一里塚跡碑から南西方向に延び、途中から消滅した旧道の延長線上で諏訪神社のそばを南西に走る細い道。「なんとなく旧道の趣」(左)が。

この道の突き当りに嘉永3年(1850)「庚申供養塔?」(右)が建てられており かつての街道であったことを伺わせる。この先は消滅状態。

右へ曲がり200mほど先を左に折れると「真土神社」(左)北側の細い道に出るがこの道が旧道の名残りのようで参道に設置された真土神社参道碑の側面に古道中原街道とある。

「真土神社」(左)はちょっと珍しく北西に向いている。明治3年(1870)、諏訪大社から健御名方命と伊佐那美命を合祀し真土神社と改めたことから社殿を諏訪大社の方向に向けたのだとか。

参道前の道が「消滅を免れた中原街道」(右)だが、松の植込みなどがあり思わず写真に撮りたくなるような風景だ。

その風景の中に建てられているのは「中原街道碑」(左)。
説明板に「古来より真土(地名)を斜めに横断している古道があった。この道は相模道・奥州道などと呼ばれ大磯から中原を通り、真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州に至る古道であった」とある。

中原街道碑の隣にある石碑は「真土大塚山神獣鏡の碑」(右)。
この近くの真土大塚山にあった古墳から昭和10年(1935)にほぼ完全な形の三角縁神獣鏡が出土したことを記念した石碑。

中原街道碑の前から道成りに数分「昔からの道」そんな雰囲気が感じられる「細い道」(左)が。

すぐにバス通りに合流しその先は消滅状態。旧中原街道に近い道を選んでしばらく歩くと交差点向う側に石碑が見えるではないか。「中原上宿遺跡」(右)と刻まれた石碑には道路建設の際、弥生時代の住居址や奈良・平安時代の住居址群・大型の井戸址が発見されたことなどが記されている。

交差点を横断するとちょっと狭い道となるがこの辺りは中原街道の旧道。電柱の陰に「中原街道一里塚跡標柱」(左)。中原街道は別名『御酢街道』とも呼ばれ、この辺りで造られた成瀬酢を江戸城まで運んだ道。

標柱の反対側に「御酢街道一里塚跡レート」(右)があるはずだが いくら探しても見つからんのです。通りかかった年配の方に尋ねると「あるよ こっちだ」と案内してもらったが「あれ、無いなー」 二人でやっと探し当てたのがブロック塀の下段に嵌め込まれたレートでした。

路地を入った奥にある「日枝神社」(左)は中原御殿の鬼門に当たることから徳川家代々崇敬の厚い社であった。寛永17年(1640)に現在地へ遷座。祭神は大山咋命と東照大権現(徳川家康)だという。

境内裏手に「庚申供養塔道標」(右)が据えられているが元々は中原下宿(現・中原一丁目)にあったもの。道路建設でこちらへ移転。塔左側に平塚ステーション道と刻まれているが明治20年(1887)に東海道線平塚駅が開設され そこに通じる道が整備されたことを記念して設置されたもの。

日枝神社から街道に戻り次の交差点を左に曲がって5〜6分。大松寺に文化13年(1816)「徳本六字名号塔」(左)が建てられているが徳川家からの信仰が厚かった徳本行者は中原御殿近くの大松寺に三回化益に来たという。

数分先、丁字路右側に「中原宿高札場跡」(右)と記された標柱と説明板が。ここは中原街道と大手道が交わる場所。高札場前で右折し大手道を進むと中原御殿跡はもうすぐだ。

突き当りの中原小学校が中原御殿があった場所。「中原御殿跡碑」(左)と説明板が建てられている。御殿が造られたのは慶長元年(1596)と云われており、60有余年後の明暦3年(1657)に引き払われた。

ついに目的地の中原御殿跡に到着。だがもう一カ所見ておきたい場所があるのでもう少し先まで。

「善徳寺の三門(山門)(右)は中原御殿の裏門を移建したもであると昔から言い伝えられている。
茅葺の風雅な建物は如何にもそれらしい風格。

中原街道はさらに花水川を渡って東海道大磯宿の手前、化粧坂一里塚まで続くのだが今回の旅は中原御殿までとした。

桜ケ丘から寒川までに戻る        表紙へ戻る