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中原街道  道中記

@桜田門から五反田A五反田から丸子の渡しB丸子の渡しから中山 C中山から桜ケ丘 D桜ケ丘から寒川 E寒川から中原御殿

中原街道C
中山から桜ケ丘まで                           街道地図
中山から先はアップダウンの連続する難所。今は上下4車線で自動車なら快適に走れる道路だが江戸時代は
さぞ難儀な道ではなかったのではないだろうか。
途中には一里塚跡や問屋場跡などもあるが、比較的単調な歩きが続く。 楽しみ?は、この坂の頂上を越えたら
次はどんな坂が待っているかと想像しながら坂道を上っていくことかな。

平成27年11月10日

中原街道の旅 第4回目は 中山(旧都筑群中山村) の宮の下交差点から。
交差点を渡ってすぐに左の旧道に入るとスチール製の物置に慶應二寅年と刻まれた道祖神など「石仏4体」(左)が鎮座。

旧道を4〜5分歩くと県道に合流。その先の寺山町信号からの上り坂は「長坂」(右)と呼ばれているが、その名の通り1km弱という長い上り坂。やっと上りきったと思ったら下り坂の先からまた上り坂。

アップダウン繰り返しの中原街道だが上白根病院から先の坂が凄い。下り坂の先には「遥か彼方に上り坂の頂上が見える」(左)のだが向うの頂上の方がこちらより高そう。中原街道を歩いたどなたもが ウワ〜と声を上げてしまう場所だ。

動物園(ズーラシア)入口交差点の先から左に入る道があるが、ここは旧道。
かなりの急坂を上ると「水道道」(右)と呼ばれる遊歩道に到着。開港横浜の街に飲み水を送るために造られた鋳鉄管造りの本格的水道で明治20年(1887)完成。

水道道から県道中原街道に戻り坂を下って行くと 「庚申塔」 「日蓮報恩塔」 「都筑郡役所創設之跡碑」 が続けて現れる。
庚申塔の側面は指差し道標、「此方 江戸ミち」「此方 かな川」とある。日蓮報恩塔が建立されたの文政9年(1826)。オランダ人医師シーボルトが第11代将軍 家斉に謁見した年であった。
都筑郡役所は明治11年(1878)12月開所とあるが、後に現・都筑区川和町に移転。

郡役所跡碑のすぐ先で中原街道を横切る細い道は八王子から横浜までの浜街道・通称「絹の道」。いつか歩こうと思っている。

都岡交差点を渡り数分、帷子川に架かる「御殿橋」(左)は徳川家康が江戸城入城の際や中原御殿に向かう際に渡った橋。この先にあった下川井御殿を休息所にしていたことから御殿橋の名が付いたという。

その先の緩い坂道を上っていくとコンクリートの祠の中に三猿の上に地蔵尊が乗った庚申塔が。宝永4年(1707)と刻まれている。坂を上りきった辺りの左奥に鎮座しているのは「三嶋神社」(右)。由緒によると、寛永年間以前(1624〜44)の創建と伝わるが詳らかではない。どういう分けか猫が集まってきたのでしばし猫のお相手を

街道に戻り保土ヶ谷バイスの高架下を通り過ぎたら「歩道際の階段」(左)を上がると旧道に復帰できる。ここはうっかり通り過ぎてしまいそう。旧中原街道旧道 の表示が欲しいところだ。

階段を上がったら古いアスファルト舗装の道を進み十字路を真っ直ぐ進んで行く。

数分歩くと「一里塚跡標柱」(右)が。説明書きに「塚の直径は3m、高さ1m、中山の宮下より一理、大和市の桜株より一里だそうだ」とある。
 

そのすぐ先に享保9年(1724)建立の「岩船地蔵」(左)が鎮座。船に乗ったお地蔵様が六道の苦海に船で竿さして溺れている人を救い上げて下さると同時に、あらゆる願いをかなえてくれるのだとか。

この先は 「矢指市民の森 と住宅地の間の緩やかな下り坂」(右)を歩いていくのだが時々車が通るだけなのでのんびりと歩ける。ただし見どころは無い。
西部病院入口交差点で県道・中原街道に合流。この先は現中原街道を歩くのだが、まだまだアップダウンは続く。

坂を下った所の二ツ上橋交差点向う側に「二ツ橋由来碑・二ツ橋供養塔・歌碑」(左)が並んでいる。由来碑によると道光親王と徳川家康が次のような歌を詠んでいることから 二ツ橋の地名が生まれたという。
 相模野の流れもわかぬ川水を 掛けならべたる二ツ橋かな  道光親王 文明16年(1484)
 しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる二ツ橋かな   徳川家康 慶長18年(1613)

石碑群の裏に据えられているのは「右八王子往来 左神奈川往来」と刻まれた「中原街道碑」(右)。

この交差点から再び上り坂。五分ほど歩くと今度は下り坂。なんとまあ坂が多い街道だこと。

下り坂の途中にあったのは「梛(なぎ)の木碑」(左)。
寛文年間(1661〜73)、この地を治めていた島津久利が薩摩より梛木を取り寄せ植樹。弘化元年(1844)、江戸城本丸・西の丸が全焼した際、当地の梛木を伐採し中原街道を急送。江戸城再建に多大な貢献。

さらに十数分、歩道際の一段高くなったところに天保10年(1839)建立の「地神の碑」(右}や双体道祖神などが。
花が手向けられ大事にされているようだが、ちょっと痛みが激しい。

地神碑の斜め向うに見える「宗川寺」(左)は石川宗川が開基、日賢上人が寛永2年(1625)に開山。
山門手前の説明板に瀬谷問屋場跡の事が記されている。 それによると「寺の東方80mの地点に小田原北条氏が問屋場を設置。その後徳川幕府より託され270年に渡って人馬継立を行ってきた」。

山門を入ると目の前に見事な銀杏の大木が2本。「夫婦銀杏」(右)と呼ばれ樹齢220年という長寿。縁結び・安産・子育て祈願の参拝者が絶えない。

宗川寺前の緩い坂道を下り「新道大橋」(左)を渡ると横浜市から大和市。下を流れる川は境川。その昔は相模国と武蔵国の国境を流れ、現在は東京と神奈川、横浜市と大和市を分ける川。

橋を渡り大和市に入ると「久田(くでん)の大坂」(右)と呼ばれるかなり急な上り坂。今は切通しになっているが かつては這って上がったとまで言われた急坂であった。上った先で中原街道を横切っているのは順礼街道。

久田の大坂を上りきったら左に曲がってちょっと寄り道を。

消防団建屋の敷地内に建てられているのは「順礼街道碑」(左)。かつて巡礼者がめぐった坂東三十三札所の第八番星谷寺(座間市)から第十四番弘明寺(横浜市)を結ぶ道。今も坂東三十三札所巡りをする巡礼者はいるのだろうか。

すぐ先は「左馬神社」(右)。宝暦14年(1764)の建立で祭神は左馬頭義朝(源義朝)。 境内の鐘楼は神仏混淆時代の名残か。境内入口にある庚申塔は道標を兼ねており「右ほしのや道」と刻まれている。「ほしのや」は第八番札所星谷寺。

街道に戻るとほどなく桜ケ丘交差点に到着。 かつてこの交差点に「庚申塔道標」(左下)があったということだが現在は近くの金刀比羅神社に移されているのでちょっと寄り道を。

桜ケ丘交差点にあった庚申塔道標は宝永7年(1710)の建立で三猿の上に青面金剛が乗った正統派。側面に刻まれた道標の道筋は「八王子ミち」「大山ミち」。

小田急江の島線の踏切を渡ると「桜株十一面観音」(右)が微笑んでいるが この観音様には悲しい由来が。
昭和11年(1936)、この踏切に差し掛かった自動三輪車に運動会を見終わった若者が多数。そこへ迫ってきたのは江の島行き電車。大音響とともに11名即死、2名が重症。翌年、冥福を祈る十一面観音を安置。

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