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旅人 成田街道道中記ロゴ 成田山道道標

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B大和田宿 おおわだじゅく 菅原道真の祟りを恐れた藤原時平の子孫が移り住んだという大和田は成田街道のほぼ中間に位置する。
このため成田詣での旅人が江戸を発って最初に泊まる宿場となり大変な賑わいであった。しかし今の大和田は
鄙びた街道という雰囲気はあるが往時の面影は少ない。
街道地図

 平成24年4月13日

血流地蔵道道標成田山道標船橋宿を出てあちらこちら見学しながらかれこれ2時間半、自衛隊習志野演習場横を通って到着した場所は新木戸交差点。交差点向こうに見える石柱は「血流地蔵道道標」(左)。この三叉路を左に曲がった一里ほど先の貞福寺本尊血流地蔵への道標で、享和3年(1803)に建立されたもの。

向かい側に見える 半分に折れたものをセメントで補修したちょっと痛々しい石塔は「成田山道標」(右)。

子安観音石塔群新木戸交差点から10分ほどの八幡神社に子安講中が建てた「子安観音」(左)が何体もあるのだが子どもを抱いた観音様の姿がなんとも艶かしいんだなー。

さらに5〜6分、「多数の石塔」(右)が街道の左上に見える。中でも多いのが出羽三山碑。大和田周辺では講を組み三山参りに出かける風習があったが その記念として建てられたのが出羽三山碑。その他に二十六夜講、馬頭観音など、なんと30基近くの石塔が並んだ景色はあまり見られない。

昭和レトロを感じる家しばらく歩くと、板張り壁に木製ガラス窓という「昭和レトロを感じる家」(左)が。外灯も裸電球に浅いシェードという正に昭和レトロ。思わず近寄ってみると若かりし頃の由美かおるさんが居るではないか。ここに大村崑さんが加われば申し分ないのだが。

裸電球に浅いシェード由美かおる三お蚊取り線香看板キンチョールの看板富士ヨット学生服の看板ヒゲタ醤油の看板

女人講の石仏群さわだ茶家街道沿いには子安講や女人講の石仏が多いが ここにも「女人講の石仏群」(左)が。安永5年(1776)の文字も見える。 

数分歩くと生垣の中に瓦葺の立派なお屋敷が。ここは手打ち蕎麦を中心にした和食の「さわだ茶家」(右)。建物は戦後の初代首相であった東久邇宮殿下の昭和初期の別邸を移築したもの。想像よりは安く食事ができるので丁度昼頃通った場合はお勧めの食事処。

八百屋お七の墓明治天皇行在之処碑さわだ茶家から数分の長妙寺に「八百屋お七の墓」(左)という思わぬものが。鈴ケ森で火あぶりの刑となったお七の亡骸をこっそりと持ち帰ったお七の母は実家のある大和田の長妙寺に葬ったのだとか。

さらに数分先の街道際に「明治天皇行在之処碑」(右)が建てられているが、ここは明治6年(1873)、大和田原の近衛兵演習天覧のために行幸された際お泊りになった大沢小十郎邸があった場所。

大和田時平神社萱田時平神社大和田とその近くには左大臣藤原時平を祭神とした時平神社が4社ある。そのうち2社が街道沿いにあるので寄り道を。長妙寺のちょっと先、右側の路地を入った奥の「大和田時平神社」(左)は慶長15年(1610)の創建。本殿のぐるりに見事な彫刻が施されている。

印旛法水路(上流は新川、下流は花見川)に向って下っていく途中の石段を上った高台にある「萱田時平神社」(右)は元和元年(1615)の創建。

排水機場構内の桜印旛放水路と排水機場街道は坂道を下り大和橋を渡るのだが橋の下を流れる川は「印旛放水路」(左)。奥に印旛沼排水機場が見えるが江戸時代の印旛沼は幾多の災害を引き起こしてきた「あばれ沼」。

江戸幕府も手を拱いていたわけではなく何度となく排水路工事を試みたのだが ことごとく失敗。昭和21年(1946)からの大工事でようやく水害の心配から開放されたという。「排水機場構内の桜」(右)があまりに見事だったので1枚。

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