C臼井宿うすいじゅく |
臼井城を中心に発展した臼井であったが城は江戸時代初期に廃城。しかし成田山詣でが盛んになると再び
宿場町としての賑わいを取り戻し多くの旅籠が軒を並るようになった。だが鉄道が開通すると宿場としての
機能が終わり再び静かな街に。 |
街道地図 |
印旛沼排水路に架かる大和橋を渡った成田街道は国道16号の高架下を通り、長屋門を眺め、八坂神社横を通り、勝田台のビル群を抜け、小さな庚申塔道標を探し、かれこれ30分、
井野町に入ったらちょっと寄り道を。 |
路地というほどではないが住宅街のなかの狭い道を数分歩くと「加賀清水」(左)と呼ばれる湧水池に到着。この清水は佐倉城主・大久保加賀守忠朝が愛飲し江戸への往来の際は必ず立ち寄ったのだとか。さらに「説明板」(右)には国道脇に道標があると記されている。
その道標は歌舞伎七代目市川団十郎が寄進したもの。中古車店前にあるはずだがいくら探しても無い。店の人に聞くと東日本大震災で倒壊、佐倉市が撤去してしまったのだとか。早く戻してくれると嬉しいのだが。
コメント:街道際のビル前に戻されているようです。 |
変化の少ない国道を30分ほど歩くと歩道際に「成田山道標」(左)が建てられていたのだが無残にも半分に折れているではないか。この道標は成田山信集講の岩田長兵衛が明治27年(1894)に建てた5基の内の1基。しかし同年7月に市川ー佐倉間に総武鉄道が開通したため早々に役目を終了。
ほどなく街道際に「皇産霊(みむすび)神社」(右)と記された鳥居が。あまり馴染みが無い神社だが同名の神社は全国的にはかなり存在。後ろに立つ石碑は出羽三山碑。 |
旧成田街道はこの先の坂道を下り 手繰川を越えたら国道と別れ左の道に入って今度は坂道を上り臼井台へ。坂を上りきった三叉路の向こうに「成田みち道標」(左)が見える。刻まれている文字は「右成田みち」「左江戸みち」「西さくば道」。
この三叉路を右へ曲がって1〜2分、ちょっと寄り道を。右へ曲がり坂を下ると妙覚寺の前に雷電為右衛門の等身大画像が刻まれた「雷電碑」(右)が。史上最強の力士と云われた雷電為右衛門の153回命日(文政8年〈1825〉)に建立されたもの。隣に雷電の手形が掲示されているがビックリするほど大きい。 |
街道に戻り次ぎの十字路まで来たらまたまた寄り道を。十字路を左に曲がり5〜6分、三叉路の左奥に見える神社は地元の人が妙見様と呼んでいる「星神社」(左)。臼井城築城の際、城の鬼門の地に創建されたと伝えられている。説明板によると妙見とは北斗七星を神格化したもので臼井城を築城した千葉一族の守護神とされていたのだとか。
星神社の手前を右に曲り次ぎの三叉路までくると高台に「太田図書の墓」(右)が建てられている。文明11年(1479)正月、太田道灌の弟 図書は千葉氏の軍勢と激しい戦を行い この地で討ち死に。 |
三叉路のすぐ先が千葉氏一族の臼井六郎常康が居を構え、14世紀の中頃に臼井興胤(おきたね)が城を築いたと伝わる臼井城。二の丸跡を通り土橋を渡った先が「本丸跡」(左)。
六郎常康が永久2年(1114)に臼井の地を納めて以来、久胤まで16代450年、臼井氏はこの地の領主であった。
「本丸跡から眺める印旛沼」(右)は大変風光明媚、夕日輝く眺めは城嶺夕照と呼ばれ臼井八景の一つ。
いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡 臼井秀胤 |
街道に戻り新坂を下るとその先は臼井宿だが 坂の手前に見える朱塗りの山門は弘安6年(1283)創建の古刹・妙傳寺の「鐘楼門」(左)で宝暦8年(1758)の落成。
新坂を下り十字路を右に入って数分、保育園先の奥まった場所に「雷電為右衛門夫妻の墓」(右)がある。雷電の墓は全国に4ケ所あるが ここは雷電夫人おはんの生家の菩提寺だった場所で、晩年を臼井で過ごした雷電 と雷電夫人 及び幼くして没した一人娘の3人が眠る墓所。 |
街道に戻ったらすぐ先の三叉路を左に曲がり次ぎの三叉路(中宿交差点)を右に曲っていくルートが旧成田街道。 |
三叉路(中宿交差点)際の石碑は「明治天皇臼井行在所碑」(左)。この辺りが臼井宿の中心街で冒頭の成田名所図会の三叉路もまさにこの三叉路。
街道は三叉路を右に曲がっていくのだが左に曲がって10分ほど歩いた先へ寄り道を。向った先は「阿多津の墓」(右)。臼井城主祐胤(すけたね)の子竹若丸の乳母であった阿多津(おたつ)が、竹若丸を殺害し城を乗っ取ろうと企てた陰謀を知り追われる身に。芦原に逃げたが咳が出て発見され殺されてしまったのだとか。 |
三叉路まで戻りその先の路地を入ると突き当たりが元亀元年(1570)創建の「長源寺」(左)。原胤栄(たねよし)が臼井城主になった年に増上寺9世貫主の道誉上人を招き開山。
その「道誉上人の墓」(右)が長源寺脇の道を通った奥にある。きれいに整備されているが五輪塔は戦国時代末期の造立、無縫塔は天保3年(1832)の造立だそうだ。
注:道誉上人は婆裟羅大名といわれた佐々木道誉(京極高氏)とは別人。 |
街道に戻り京成線の踏切りを渡ると三叉路に「道標」(左)が並んでいる。大きな道標に刻まれた文字は「西 江戸道」「東 成田道」 そして文化3年(1806)と。
右側の道標は上部に仏像が彫られ その下に刻まれている文字は「さくら道」。成田道と呼ばれる前の道標だろう。
街道はこの先しばらく京成線と平行して進むが ほどなく右に曲っていく。 その先に「一里塚跡」(右)と云われる場所があるが表示は無い。街道を横切る用水路の手前にそれらしい ぼっくい が横たわっているがなんとも。 |
一里塚跡を過ぎ八丁坂を上り切った左側の広場は「江原刑場跡」(左)。旧佐倉藩の刑場があった場所で写真の題目供養塔は寛政8年(1796)に建てられたもの。ここは天保14年(1843)に佐倉藩の藩医・鏑木仙庵らによって死刑者の解剖が行われた場所でもある。
地元の古老によると、「首洗い井戸跡」(右)があるとのことで探したところ対面の竹薮を50mほど下った谷底に小さな池がある。かつて首洗い井戸があった場所のようだが今は井戸は無い。 |
八丁坂を上り広い道路に出ると「成田15km 佐倉3km」の道路標識が。佐倉宿が近い。しかし見渡すかぎり真っ直ぐな道路に少々うんざり。
満開の八重桜と山吹が疲れた足を癒してくれる。 |
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