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滝坂道 道中記

①道玄坂から経堂まで    ②経堂から滝坂まで

道玄坂から経堂まで 街道地図

滝坂道は道玄坂の頂上近く、道玄坂上交番前交差点で旧矢倉沢往還(大山道)と分かれ
裏渋谷通り と呼ばれる道を通って山手通りを横断。淡島通り に入り松見坂を上って駒場、
太子堂を経て若林まで来たら淡島通りと分かれ生活道路となっている旧道に入って行く。

招き猫の豪徳寺や世田谷城址などに寄り道しながら小田急線・経堂駅までの歩き旅だが、
歴史を感じる遺跡や神社仏閣が多く飽きない街道歩きができる。

平成31年1月15日

渋谷・道玄坂を上り 坂上交番前交差点まで歩くと道玄坂碑や道玄坂道供養碑などが建てられた一角があるが、ここに「与謝野晶子歌碑」(左)が据えられている。 この近くに住んでいた晶子が 山の向うの遠い堺の生家を思い懐かしい母を偲んで詠ったもの。   母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かかる  晶子

滝坂道はこの交差点の向う側がスタート地点。その入口に立てられているのが「滝坂道標柱」(右)。一歩足を踏み入れると道玄坂の喧騒が嘘のように静かな街並みに変わる。

滝坂道に入り50mほど歩いたら右へ曲がり裏道に入った所に「道玄坂地蔵」(左)が鎮座。元々は矢倉沢往還と滝坂道の追分に300年ほど前に建立された豊沢地蔵と呼ばれていたもの。 昔の御本体は2度の火災で焼け崩れたため現在の像の内部に納めてこの地に移されたのだとか。

滝坂道に戻ると、このあたりは三業地の花街。大正から昭和初期の全盛期には100軒以上の芸者置屋があったという。「渋谷見番があった場所」(右)辺りはマンションに変わり昔の面影はすっかり無くなってしまったが裏路地に入るとかつてを想像できる料亭や居酒屋さんが散在。赴きある町並みが楽しめる。

その先の小さな十字路左側は「女坂」(左)と呼ばれる階段道。着物姿の芸者さんが歩き易いように段差を小さくした階段の坂道。この先にも似たような階段坂がある。

この十字路を右に曲がり急坂を下ると「弘法の湯碑」(右)が立っている。弘法大師像が彫られた下に刻まれた文字は「弘法大師 神泉湯道」。弘法湯は江戸時代からの旧上豊沢村の共同浴場であったが明治18年(1885)から本格的なお風呂屋になり、周辺には料亭や芸者置屋もあったが今は何も無い。

三業地からの坂道を下りしばらく歩くと山手通りにぶつかるが、その手前左側に「石橋供養塔」(左)が建てられている。文化9年(1812)に建立されたこの供養塔は70mほど離れた尾根沿いの三田用水に架けられた石橋に感謝して建てられたもの。昭和47年(1792)に発見され、この地に移設・保存。

山手通りを越えた先から淡島通りの松見坂を上っていくのだが 左下の祠の中に鎮座しているのは「松見坂地蔵尊」(右)。
旧上目黒村の東入口に村へ侵入する厄を除けるために祀られたのだが、現在の地蔵尊は戦後に造立されたもの。元の地蔵は空襲で被災したため地下に埋められているのだとか。

松見坂を上り駒場辺りを歩いていると地蔵祠が見えてきた。この地蔵さんは「〆切地蔵」(左)と呼ばれている。
その昔、隣村で悪病が流行り大勢の人が死んだことに驚いた駒場の村人がこの地蔵さんに祈ったところ誰も病気に患らなかったという。以来、悪病〆切りのお地蔵さんとして親しまれてきた。

ほどなく淡島通りは左へ曲がって行くが 寄り道を。
向かった先は森巌寺だが、その途中で見たのは「阿川家の門」(右)。阿川家は江戸時代にこの一帯の名主で将軍の休息所となったほどの家柄だった。門の建設年代は不明。

阿川家の門から数分歩くと「北澤八幡神社」(左)。創建は500年ほど前の文明年間(1469~84)で、当時の世田谷城主であった吉良頼康によって勧請され鬼門方向の守護神としていた。
この神社の自慢は世田谷百景にもなっている秋の例大祭。30台もの神輿が宮入するという。
 
すぐ先の森巖寺は慶長13年(1608)に徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立。北澤八幡の別当寺でもあった。境内左手の「淡島堂」(右)は天保7年に建てられたものだが、この堂内に祀られているのは安産・子授け、裁縫の上達など女性に関するあらゆることに利益を授けるという淡島様。これまで歩いてきた淡島通りの名称はこの淡島堂に由来する。

淡島通りに戻り50~60mほど歩くと左に入る旧道が残されている。旧道に入った先の北沢川緑道に小さな橋があるが、ここは滝坂道に架かっていた「大石橋跡」(左)。 かつては北沢川が流れていたが今は暗渠化され その上は北沢川緑道の人工せせらぎ。

その先の五差路向う側に「庚申塔祠」(右)が見える。祀られているのは庚申塔と 厄除地蔵尊 と刻まれた文字地蔵尊。文字庚申塔や馬頭観音は見かけるが文字だけの地蔵尊は珍しい。

祠の右側に「日本廻國供養之石塔」(下左)が建てられているが、かつては大石橋の近くにあった。

北沢川には橋が無かったためここを渡るのは容易ではなかった。天明(1781~89)の頃、通りかかった藤助と名乗る行者が難渋する村人を見て諸国行脚し資金を集め石橋を架けたという。これに感謝した村人が建てた石塔だが現在の石塔は昭和27年(1952)に再建されたもの。

五差路を左に曲がって寄り道を。ちょっと歩いた先の多門小学校は世田谷城の支城である三宿城があった場所。その先に鎮座するのは「三宿神社」(右)。三宿城が築かれたとき多門寺という寺院が創建されたが明治初期に廃寺。その跡地に村の鎮守として創建されたのが三宿神社で神社の歴史としては比較的新しい。

淡島通りに戻り7~8分、太子堂中学の前まで来たらまたまた寄り道を。

中学校横を道なりに歩くとケヤキの大木が見えるが、その脇の路地を入った奥の2軒長屋は「林芙美子の不遇だった時代の寓居」。隣には坪井繁治・榮夫婦が住み 若いころの平林たい子も度々訪れたという。芙美子の処女作「放浪記」はこの頃の生活の一コマを描いたもの。

その先の円泉寺は南北朝時代の末期(~1392)に太子堂の小堂が結ばれ、別当として円泉坊(後の円泉寺)を草創。一時衰退するが文禄4年(1595)に中興されて今日に至っている。
地名の太子堂は境内右手の「太子堂」(右)に聖徳太子像が祀られていることに由来。

「円泉寺前のケヤキ並木」(左)は せたがや百景 に選ばれるほど見事な大木の並木。元々は屋敷林として植えられたケヤキだが今は冬枯れでちょっと寂しい景色。春の芽吹き頃は素晴らしいだろう。

滝坂道に戻り5分ほど歩いたら「太子堂八幡神社」(右)に寄り道を。
神社の創建年代は不詳だが、平安時代後期に源頼義・義家父子が奥州征伐に向かう途中、ここにあった神社に武運を祈ったと伝えられている。 円泉寺の記録によれば、その後の文禄年間(1592~96)に八幡神社として建立されたとある。

太子堂八幡神社から滝坂道に戻ったらその先で淡島通りと分かれ右側の旧道に入いる。5分ほど歩くと環七通りで行く手を阻まれるが若林陸橋で迂回し再び旧道へ。若林小学校の手前を左に入ると小さな祠の中に「庚申塔」(左)が2基。三猿の上に青面金剛という正統派だ。

住宅地の中を歩き、変則四差路まで来たらちょっと戻って小さな公園へ。「狐塚之霊碑」(右)なる石碑が建てられているが、刻まれている碑文がちょっとミステリアス。明治5年(1872)に狐の祟りと思われるような事件が多発したためお祓いをしてもらった。その後30年近く過ぎた明治32年(1899)にこの石碑を建立した、のだとか。

再び住宅地の中の滝坂道へ。数分歩いたら右に曲がり「杓子稲荷神社」(左)に寄り道を。室町時代、足利管領の麾下にあった吉良治部太輔治家が世田谷城を築いた際、鬼門鎮護として伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられている。今はひっそりとしているが秋の例大祭には地元の人達でけっこう賑わう。

その先辺りはかつての松原宿。といっても旅籠があり賑わっていた、というわけではなく何軒かの店があった程度。しかし枡形道だけはしっかりと直角に左へ曲がっている。これは宿場の為というより世田谷城防衛のためと考えられる。この先でもう一度直角に曲がるがその角に鎮座しているのは宝暦6年(1756)「地蔵尊」(右)。

滝坂道はこの角を右へ曲がって行くのだが、左に曲がって世田谷城跡と豪徳寺に寄り道を。

「世田谷城跡」(左)は豪徳寺の横を通ってかれこれ10分歩いた交差点際が入口。応永年間(1394~1426)頃に吉良治家が築いたと考えられている。その後北条氏と姻戚関係を結び二百年に渡り吉良氏の本拠地となっていたが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏滅亡とともに世田谷城も廃城となった。

「豪徳寺」(右)は世田谷城主吉良正忠が文明12年(1480)に叔母の孔徳院のために弘徳院という庵を結んだのが始まりだが、その後、彦根藩・井伊家の菩提寺となり 万治2年(1659)に2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英居士」に因み豪徳寺と改称。

山門を入ると正面に直孝の娘・掃雲院が寄進した仏殿や、延宝7年(1679)に完成した梵鐘などが今も当時の姿を伝えている。

豪徳寺が井伊家の菩提寺となったキッカケは、直孝が鷹狩の帰り、寺の前を通ると猫が手招きを。 このため寺に立ち寄り休憩していると激しい雷雨に。雨に濡れずにすんだ直孝はこれを喜び多額の寄進をし菩提寺に。寺の和尚は猫が死ぬと招猫堂を建て弔ったという。後世、猫の姿形を作り招福猫児(まねぎねこ)としたのが今日の「招き猫」(左)。

境内左手の奥は「井伊家墓所」(右)。 二代藩主直孝を始め歴代の藩主や大老井伊直弼などに加え江戸で暮らした正室や側室、その子供など三百余基の墓があり都内でも屈指の大名墓は国指定史蹟。

滝坂道に戻り数分歩いたら左に曲がる細い道を入ると憲政の神様・議会政治の父 と言われた「尾崎行雄の旧邸」(左)が見られる。 この建物は昭和8年(1938)に麻布から移築。

東急・世田谷線の踏切りを渡ったら左に曲がり線路沿いを4~5分歩くと「世田谷八幡宮」(右)。
寛治5年(1091)、後三年の役に勝利した源義家がこの地で豪雨に遭い 天候回復を待ってこの地に滞在。その際、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護によるものと宇佐八幡宮の分霊を勧請して祀ったのが始まり。

滝坂道に戻り数分歩くと右奥に「常徳院」(左)が見える。寺伝によれば開基は室町幕府九代将軍足利義尚とされているが定かではない。山門の左に「敷石供養塔」と刻まれた石塔があるが これは天保2年(1831)に建立されたもの。

その先の三叉路際の祠に正徳元年(1711)の庚申塔と宝暦11年(1761)の地蔵尊が鎮座。この三叉路は「滝坂道と旧村道の分岐点」(右)。真っ直ぐの道道が滝坂道で小田急経堂駅の下を通っていく都道118号だが見どころはほとんど無い。一方、村道の方には庚申塔道標や馬頭観音道標があり再び滝坂道に合流するので村道を歩くことにする。

三叉路を左に入り最初の三叉路を右に曲がるのだが、その先も三叉路が多いので慎重に歩かねば。

10分ほど歩いた農大通りとの交差点際に鎮座しているのは「庚申塔道標」(左)。文政9年(1826)の造立で、正面に刻まれた道筋は「南二子道」。では側面はというと、右面に「東青山道」、左面に「西ふちうミち」 。青山道とは滝坂道のことで渋谷・青山に通じていることから青山道と。

30mほど先の丁字路を右に入った奥の寺院は「経堂」という地名の由来となったとされる「福昌寺」(右)。
開山は中国よりの帰化僧で江戸幕府に使えていた医師・玄畝和尚。屋敷内に多くの蔵書があったことから土地の人はこれを経本と考え屋敷を経堂と呼びそれが地名に。 コメント:他に2、3の別説も。

小田急線ガードの手前に「馬頭観音道標」(右)がある。この辺ではちょっと珍しい三面六臂の馬頭観音で その下が道標となっており正面に「西ふちう道」、右面に「南ふたこ道」、左面には「北たかいど道」。

今回の街道歩きはここまでとし小田急線の高架下を数分歩いて「経堂駅」(右)へ。先ほど分かれた滝坂道は経堂駅のガード下を西方向に通っている。

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