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滝坂道 道中記

①道玄坂から経堂まで    ②経堂から滝坂まで

経堂から滝坂まで 街道地図

前回は、終わり近くで滝坂道から離れて旧村道に入り小田急線のガード手前で終わった。
今回はガード下を通って十数分歩き経堂小学校前で再び滝坂道へ。 
この先は千歳台の先で六郷田無道と交差し、祖師谷を通って調布に入り甲州街道を横断。
その先で滝坂を下り 「滝坂道の歩き旅」 終了となる。

多少単調な部分もあるが、蘆花公園に寄り道したり、東京ガスの巨大なガスタンクを
眺めたり、道端に庚申塔や馬頭観音が並ぶ古道らしい風景を見たりと、それなりの変化も
楽しめる。

平成31年1月25日

前回は小田急線のガード手前にある「馬頭観音道標」(左)で終了したので今回はここから出発。
この馬頭観音はこの辺では珍しい三面六臂。道標部分の正面に「西ふちう道」と刻まれているが、この道は大化の改新ごろにはあったという古い道。この先の滝坂道から分かれ国衙のあった府中に通じる重要道路であった。

小田急線ガードの下を通り数分歩いた先の三叉路際に鎮座しているのは「子育て地蔵尊」(右)。建立されたのは正徳5年(1715)、経堂在家村の48人の講中によって建立されたもので、当時は地蔵信仰が流行っており村の子どもたちが幸福に育つよう願いを込めて建立したのだとか。

地蔵尊前から住宅街の中の細い道をかれこれ10分、突き当りを右に曲がり50~60m歩くと経堂小学校前で滝坂道に合流。

7~8分歩いた先の城南信用金庫前交差点に大正15年(1926)に建てられた小さな「道標」(左)がある。正面に刻まれている文字は「向 左土手**」、右側面には「向 右千歳役場 左宮坂停留所」。宮坂停留所とは滝坂道と東急世田谷線が交差する辺りにあった宮の坂停留所のこと。とするとこの道標は設置角度が90度ずれているかな。

このすぐ先で道は二又に分かれるがここは「滝坂道と古府中道の分岐点」(右)。右に曲がっていく道が古府中道で京王線八幡山駅を越え人見街道に入って府中へ向かっていた。滝坂道は真っ直ぐ進み荒玉水道道路を横切り八幡社前に繋がっていたのだが区画整理が行われ今は一部が消滅状態。

旧道に近い道を選び住宅地の中を進むと「八幡社」(左)の前に出た。神社の由緒書きには創立年代不詳とあるが、別当寺であった東覚院薬王寺の創建が正応元年(1288)ということから鎌倉時代頃の創建と考えられる。

滝坂道はこの先の明大八幡山グラウンド脇を通り、千歳台交差点で環八通りを横断。

交差点を横断した右側は「蘆花恒春園」(右)。徳富蘆花・愛子夫人が後半生の20年間を過ごした旧宅と庭、夫妻の墓地など広大な敷地が公園として一般公開されているので寄り道を。

最初に向かったのは「徳富夫妻の墓」(左)。公園の中ほどに墓石が建てられている。明治大正期の文豪・徳富蘆花がこの地に移り住んだのは明治40年(1907)。 恒春園 と名付けたこの地で数々の名著を残し昭和2年(1927)に静養先の伊香保で永眠。遺骸は居宅前のクヌギ林に埋葬されたが、後に愛子夫人の遺骸も寄り添うように埋葬された。

林の中にある3棟の茅葺建物は「徳富蘆花旧宅」(右)。母屋、梅花書屋、秋水書院と並んでおり、内部を見学すると当時の生活ぶりが偲ばれる。秋水書院の廊下に嵌められたガラス戸は外の景色が歪んで見えるという なんとも懐かしいもの。

公園の外れにある八幡神社入り口の杉の木は「わかれの杉」と呼ばれ蘆花を訪ねて帰る人を見送った場所。今はほっそりした2代目「わかれの杉」。

 滝坂道に戻り数分、環八通りの歩道橋からも見えた 世田谷百景 の一つ 「廻沢(めぐりさわ}のガスタンク」 が目の前に。
一番大きなガスタンクの直系は36mもあるそうだ。全部で5基、壮観だね~

ガスタンクを見た次は「東覚院」(右)に寄り道を。 僧月空が正応元年(1288)に小さな庵を建てたのが始まりという古刹。川崎大師平間寺に始まり、東京・大田区の宝幢院で終わる玉川八十八ケ所霊場の42番目霊場。江戸時代までは先ほど寄り道した八幡社の別当寺であった。

滝坂道に戻り十数分、六郷田無道 と交わる榎交差点に差し掛かる。この交差点を左に曲がる道が滝坂道だが六郷田無道を北に100mほど歩くと文化9年(1812)に建立された「庚申塔道標」(左)がある。右側面に刻まれた道筋は「東たかいどミち」、左側には「南せたがや めぐろみち 北ところざハミち」。

榎交差点を左に曲がり数分 「安穏寺坂」(右)を下っていくのだが右側は蔦の絡まる石垣が続く風情ある坂道。だが、歩道が無く狭いのに車の往来が多い。ちょっと怖いのが難点。

坂の途中、右奥は世田谷百景の一つ、「安穏寺の山門」(左)。白壁にどっしりした門が「武家屋敷風」ということで百景に選ばれているが確かにお寺の山門とは思えない落ち着いた雰囲気。安穏寺は玉川八十八ケ所霊場の41番目霊場。

安穏寺坂は車が頻繁に行き交うちょっと怖い坂道。坂を下った道端に「庚申塔と馬頭観音が並び、背後には地蔵堂」(右)があるという古道の風景。地蔵堂に祀られているのは岩船地蔵。

5分ほど歩いた先の仙川手前に「類さん川」(左)が流れている。といっても今は暗渠なので流れは見られない。類さん川とは変わった名前の川だが説明板によると、仙川の水を田んぼに流す掘割で、近くに原島類蔵さんという人が住んでいたのでいつの頃からか「類さん川」になったという。

仙川を渡った先の高台は せたがや百景50番目 の 「上祖師谷神明社」(右)。上祖師谷村の氏神様として元禄年開(1688~1703)に創建。久しぶりに見る神明造りの神社だが鉄筋コンクリート造りというのがちょっと残念だな~

神明社の境内下、滝坂道沿いの石垣の中に「石橋供養塔」(左)が建てられているが これは250年ほど前の明和2年(1767)に建立されたもの。

神明社脇の坂道を上り数分歩くと三叉路際に天和2年(1682)建立の「庚申塔」(右)が祠の中に納められている。そのすぐ先に「ケヤキ並木」(右)が。元々は屋敷林だったのだろう。今は冬枯れでちょっと寂しいが芽吹いた頃の景色を見たいものだ。

ほどなく世田谷区を抜け調布市。桐明学園前を通り、京王線の跨線橋を渡り数分歩くと甲州街道(国道20号)にぶつかる。

甲州街道を歩道橋で横断し100mほど歩くと「旧滝坂」(左)が甲州街道から分かれ右に下って行く。

その入口に「瀧坂旧道」(右)と刻まれた石碑が建てられており、右側面には「馬宿 川口屋」と刻まれている。
かつての滝坂は急勾配の大変な難所。大雨が降れば坂上から滝のように水が流れ落ちるので滝坂と呼ばれるようになったのだとか。ぬかるんだ道に足を取られる馬は難儀しながら行き来したという。

瀧坂旧道碑の後方に見える大きな建物は昭和初期まで馬宿を生業としていた「旧馬宿 川口屋」(左)。

この先から滝坂道の由来となった旧滝坂。旧道の雰囲気が残る味のある坂道だ。その途中に何故か「薬師如来」(右)が。天保元年(1830)に建立されたということなので江戸時代からこの場所で旅人を見守ってきたのだろう。

滝坂を下ると甲州街道に合流して今回の街道歩きは終了。

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