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大山街道 田村道  道中記

①四ツ谷不動追分から田村十字路まで    ②田村十字路から上粕谷まで

② 田村十字路から伊勢原・上粕谷まで          街道地図

大山街道田村道の旅 2回目は旧中原街道との追分となる旧田村十字路から大山不動尊道標がある伊勢原の上粕谷まで。
国道129号の田村十字路を横断し、渋田川に架かる土安橋を渡ったら川沿いの土手道をしばらく歩くとほどなく伊勢原市。
小田急線伊勢原駅の構内を通り大山阿夫利神社大鳥居を潜って県道61号へ。伊勢原大神宮前を通り片町の交差点で左に
曲がると上粕谷。阿夫利神社二の鳥居を潜り石倉橋交差点まで来ると東京・赤坂見附を起点とした大山街道青山道に合流。
石倉橋十字路(現・石倉橋交差点)にあった不動尊道標を探して今回の旅を終了とした。

令和2年2月6日

田村十字路を横断し15分ほど歩くと右手の鳥居奥に「御霊神社」(左)が見える。平安時代初期、征夷大将軍の坂上田村麻呂が奥州征伐の帰途、京都の御霊神社より崇道天皇を勧請して創建したと伝わる古社。向拝の彫刻が素晴らしい。

御霊神社を出て新幹線の下を潜り、土安橋を渡ったら右へ曲がり 川沿いの「土手道」(右)に入って行く。真正面に大山を望みながら歩くこの道はなんとも長閑。

かれこれ30分ほど歩き小田原厚木道路を越えた先の東円寺に「舟つなぎ松跡碑」(左)が山門際にある。その昔、この辺りは沼地で舟に乗って往来していた。その舟を東円寺の松につないだことから「舟つなぎ松」と言われるように。
ここの渡しを「古賀の渡し」と呼んでいたが、次のような伝説が。

東円寺横の坂道を上り10分、三観寺の本堂前に立つ「宝篋印塔」(右)は宝暦13年(1763)に造立されもの。台座に乗った高さ2.8メートルという大きさは見応え十分。

さらに坂道を数分上った右側は「八坂神社」(左)。由緒によると「前北朝時代(1200~)に京都八坂神社を信仰する有志が勧請したものと考えられる」とある。境内右手に応永10年(1403)の梵鐘があることから、その頃には神社の形態を整えていたのだろう。

参道の途中に「庚申塔道標」(右)が1基。側面に刻まれた行き先は「左 たむら道 右 大いそ道」。「大いそ道」とは東海道の平塚、大磯に通じる道のことか。この近くにあったものが移されたのだろう。

街道まで戻り数分歩くと丁字路となるが、田村道はここを左に曲がって行く。その入口に建てられているのが元文4年(1739)「大山道道標」(左)。刻まれた道筋は「左 大山道 右 ひなた道」。気になるのは上に乗っている石仏。風化が激しく判別が難しいが大山といえば お不動様。ということは不動明王。

住宅地の中を10分ほど歩いて到着した場所は室町時代の弘治元年(1555)開山という「三福寺」(右)。道路際にそびえているのは徳本念仏塔。 山門脇の赤い建物は 子の神社。扉に草鞋が掛かっているが、足腰の病平癒の願掛けをした人が満願となった後に奉納したものだそうだ。 墓地の一角にある宝篋印塔は宝暦11年(1761)の建立。

田村道は三福寺前交差点際の細い道に入り伊勢原駅の構内を通って駅北口へ抜けていく。

駅前にドーンと立っているのは「阿夫利神社大鳥居」(左)。 この鳥居を「一の鳥居」とする記述が多いが、一の鳥居 は東海道藤沢の四ツ谷不動追分にあり、二の鳥居 は東名高速を越えた上粕谷にある。ということは「1.5の鳥居」ということになるか。この鳥居は昭和初期に小田急電鉄が建てたもの。

鳥居を潜り旧道を100メートルほどで歩くと県道61号に合流。数分歩いた交差点先の右奥は「伊勢原火伏不動尊」(右)。作者・年代ともに定かではないが、文化12年(1816)の大火の際、全町を焼き尽くすほどの勢いであった猛火が不動堂の前でピタリと止まったという。この奇瑞を目にした人々は「火伏のお不動様」として崇めているようになった。

火伏不動から5分ほど歩いた十字路際に小さな説明板が建てられているが、ここは 札の辻高札場跡。

その先4~5分の「伊勢原大神宮」(左)は創建が江戸時代初期の元和年間(1615~24)と伝えられている。伊勢の国の人・山田曾衛門なる人物が当地を開墾し鎮守として伊勢神宮の神様を勧請。以来この辺りが 「伊勢の原(伊勢原)」 と呼ばれるようになったという。
外宮と内宮が並んでいる珍しい神社だ。

境内右手の石塔群がある場所は伊勢原大神宮の別当寺であった「神宮寺跡」(右)。神社の管理を行ために境内に置かれた寺院だが普化宗であったことから明治4年(1871)に廃寺。

大神宮を出たら国道246号を横断し5分ほど先の片町十字路(伊勢原高校入口信号)を左に曲がって行くのだが、右へ曲がったすぐの「片町のお不動様」(左)に寄り道を。 太い眉毛のお不動様は享保15年(1736)の建立。

片町十字路を西に15分、東名高速の下を抜けると右奥に登録有形文化財の「山口家住宅」(右)が見える。山口家は江戸時代中期より上粕谷で名主を務めていた名家。建物はこの先の石倉にあったが幕末に引き屋をしてこの地に移したもので、明治の初め頃に宮家をもてなすための特別な部屋を増築している。
庭の片隅に大山道道標があるが、これは五霊神社近くの辻にあったもの。

山口家住宅のすぐ先にある 「阿夫利神社二の鳥居」(左)は嘉永4年(1851)に建立されたが関東大震災で倒壊。昭和3年(1928)に再建し、さらに平成3年(1991)に現在の鳥居に再々建されている。

鳥居を出て100メートルほど歩いたら上行寺に寄り道を。永禄10年(1567)に小田原に開創。その後江戸に移り何回か移転、昭和38年(1963)に現在地へ。門を入った右側に「遊女嘆きの蘇鉄」(右)と呼ばれる意味深な蘇鉄がある。
上行寺の墓地には「室井其角」 「丸橋忠弥」 「桂川甫周」 「大橋宗桂」など江戸時代の著名人の墓が多い。

ほどなく石倉橋交差点に差し掛かるが、その手前で赤坂見附を起点とした大山街道青山道と合流。この辺りは新東名高速の開通に伴う取り付け道路の工事で景色がすっかり変わってしまった。

石倉橋交差点のすぐ先を右に入ると三光寺の境外仏堂である石倉の不動堂。鎮座しているのは元禄3年(1690)に造られた「腰掛不動」(左)。このお不動様はちょっと珍しい半跏像。

石倉橋交差点はすっかり変わってしまったが、かつては、この十字路で「大山不動尊道標」(右)が旅人の道案内をしていた。現在はちょっと離れた鈴川沿いに移設されている。刻まれている行き先は 「右 い世原 田むら 江乃島 道」 「左 戸田 あつぎ 青山 道」 側面に 「此方 はたのミち 此方 ひらつかミち」。

この先は三の鳥居を潜り、女坂か男坂を登って阿夫利神社へ行くのだが矢倉沢往還を歩いた際に寄り道したので今回はここで終了とした。

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