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I大山阿夫利神社
おおやまあふりじんじゃ
大山は古くから信仰登山が行われていた山岳信仰の山。また江戸庶民の間では大山詣と
江ノ島詣をセットにした旅が娯楽の一つとなり、講を組んでの旅が盛んに行われていた。
今回はウオーキング登山の大先輩H氏との二人旅。大山の中腹にある阿夫利神社下社まで登り、
帰りはH氏の提案で日向薬師へ下るコースとした。
 街道地図

 平成25年10月8日
前回の終わりとなった大山街道田村道と大山街道(赤坂道)の合流点から阿夫利神社目指して出発。

大山道道標石塔群ここには大山街道を歩く旅人に人気の「大山道道標」(左)がある。はずだが探しても無い。なんと、新東名高速取付道路工事のため100mほど先を左に入った川沿いに移設されてしまったのだ。この道標には「右 い世原 田むら 江乃島 道」「左 戸田 あつぎ 青山 道」「此の方・・・」と刻まれている。
仮設だと思うがパイプ櫓で囲ってしまうとはな〜。

街道に戻りしばらく歩くと五輪塔や道祖神が集められた「石塔群」(右)が。江戸時代から続く街道ならではの風景です。

比比多神社美人図絵馬その先で見えたのは地元の人たちに子易明神と呼ばれる「比比多神社」(左)。天平(729〜749)の頃、当国の守護 染谷太郎時忠が子宝を願って勧請。その後、内室懐妊に及び益々信仰篤くなったと言う。

社殿を覗くと、なんと県指定重文の「美人図絵馬」(右)が。歌川豊国の門人であった当地出身の浮世絵師歌川国経の筆になるもので描かれているのは花魁を中心に新造と禿(かむろ)の3美人。社殿内にはその他に3枚の浮世絵が掲げられているが自由に拝見できるとは嬉しいかぎりだ。

地蔵院易往寺這子坂その先数分の「地蔵院易往寺」(左)は元慶3年(879)の大地震で壊滅した大山寺の修復が長引くと知った別当4世弁真上人が やむなくこの地に易往寺を建立しここに移ったという。境内に子育て地蔵が鎮座しているが真っ赤な帽子と涎掛け それに真っ赤なちゃんちゃんこがよく似合う。

大山街道は易往寺の前で左に曲がるが この道は旧道のさらに旧道。曲った先の「這子坂」(右)はかつては這って上るほどの急坂だったとか。この坂を這っていた赤子が鷲にさらわれたという言い伝えも。

三の鳥居新玉橋旧道に戻って十数分、街道を跨ぐように立つのは「三の鳥居」(左)。江戸火消し せ組 が建てたことから せ組の鳥居 とも言われているが現在の鳥居は昭和61年(1966)に再建されたもの。

5〜6分歩くと親柱に擬宝珠が乗り 朱色鮮やかに塗られた橋が見えてくるが、この橋は鈴川に架かる「新玉橋」(右)。この先にも橋が幾つかあるが、それぞれの橋の親柱には擬宝珠が乗り 朱に塗られている。大山の橋はおしゃれだ。

先導師旅館大山こまの金子屋三の鳥居を潜った先から門前町となるが新玉橋を渡ると「先導師旅館」(左)が軒を並べ始める。江戸時代には玄関先に講の名前が記された板まねきが何枚も並び大変な活気だった。

街道はその先で新道と合流。右へ曲った先の商店は 江戸時代創業で今は八代目が伝統を守る「大山こまの金子屋」(右)。子供の頃はコマでよく遊んだものだが大山こまはちょっと高価、しかし喧嘩に強かったことからあこがれのコマであった。

能楽殿愛宕滝街道は数分先の加寿美橋を渡って旧道へ。大山阿夫利神社詣の最初は神社全体を管理している麓の社務局から。 ここには「能楽殿」(左)や祈祷殿があり下社から御霊を迎える お下り(おくだり) や火祭薪能などが行われる。

社務局を出て川沿いの道を上っていくと朱鮮やかな愛宕橋。江戸時代にはその手前にある「愛宕滝」(右)で身を清めてから入山したという。

開山堂良弁滝愛宕橋を渡ってバス通りへ出たら5〜6分ほど上って良弁橋を渡ると「開山堂」(左)があり その隣の「良弁滝」(右)では龍の口からこんこんと水が流れ落ちている。

東大寺初代別当であった良弁(ろうべん)僧正が天平勝宝7年(755)に雨降山・大山寺を開山したが、その際、最初に水行を行った滝がここだったという。開山堂に安置されているのは良弁自作と伝わる良弁像。.

とうふ坂こま参道その先の開亀橋を渡ったら車道を横断して昔ながらのたたずまいが残る「とうふ坂」(左)へ。江戸時代の参詣者は手の平に乗せた豆腐をすすりながらこの坂を上ったのだとか。

ほどなく新道に合流するが その先は土産物店が並ぶ「こま参道」(右)。この参道は土産物店の先に階段、土産物店の先に階段の繰り返しで上っていく。

茶湯寺(ちゃとうでら)ケーブルカー乗り場こま参道の途中で900年の歴史を持つ「茶湯寺(ちゃとうでら)(左)に寄り道を。この寺には百一日参りという変わった風習がある。亡くなられた方の霊は黄泉路の旅に出発し百日目に仏様。親族は故人が無事仏様になられたことのお礼参りをするのだが それを知っている仏様は茶湯寺の石段で親族の来山を待っているという。

こま参道に戻りさらに上って「ケーブルカー乗り場」(右)の看板を右手に見ながら正面の階段を上ると、いよいよ大山登山の開始。

 ここから大山阿夫利神社参道・女坂

八意思兼(やごころおもいかね)神社女坂に七不思議ありまずは「八意思兼(やごころおもいかね)神社」(左)に安全登山の祈願を。天八意思兼命は天照大神が天の岩戸へお隠れになったとき八百万の神に知恵を授けた知恵の神様。

神社右手の急階段は下社への男坂、左手の緩い坂道は女坂。ここは男坂と女坂の追分でもあることから追分社とも言う。女坂の登り口に「女坂に七不思議あり」(右)と看板が。七不思議を見ながらの登山とは面白そうだ。
女坂の七不思議はこちらです。

女坂龍神堂登り始めは緩やかな坂や階段で、やはり「女坂」(左)でよかった、と思ったのも束の間。下社まで約1時間、どこまでも続く階段は千五百段とも二千段とも言われている。

地図上で2/3ほど登っただろうか。表札に宝珠山来迎院と記された建物があるが人気が無くうら寂しさが漂っている。その隣の「龍神堂」(右)は傍らの説明板によると、「元は二重滝にあり、寛永18年(1641)に再建、三代将軍の家光公により寄進」とある。 築370年ということか。

雨降山大山寺青銅宝篋印塔龍神堂先の見上げるような急階段を上ると お山のお不動さん と親しまれ関東三大不動の一つ「雨降山大山寺」(左)。良弁僧正によって天平勝宝7年(755)に開山され聖武天皇の勅願寺となった古刹。当初は現下社の場所にあったが明治初年(1868)の廃仏毀釈で現在地へ移転。

境内左手の見上げるように大きな「青銅宝篋印塔」(右)は大正3年(1914)に再建されたもの。一華一香を捧げて塔を右回りに三遍廻ると願い事が叶うそうだ。

芭蕉句碑男坂と女坂の追分大山寺を出て無明橋を渡った左手の大石は「芭蕉句碑」(左)。ちょっと読みずらいが刻まれているのは次の句。
      山寒し 心の底や 水の月   芭蕉

ほどなく「男坂と女坂の追分」(右)。下の追分まで30分と記されているが登ってくる場合は途中の休憩を入れて1時間ほど。 まだ階段は続くが ここまで来れば下社が近い。

大山阿夫利神社下社境内からの眺望ついに到着 「大山阿夫利神社下社」(左)。神社創建は2200余年以上前の崇神天皇の御代と伝えられている。山頂に本社(本殿)があり この地は下社。元々は大山寺があった場所。廃仏毀釈で不動堂が女坂の途中に移ったため跡地に拝殿が設けられ阿夫利神社下社となった。

この地は標高700m。「境内からの眺望」(右)が素晴らしい。写真では分かりずらいが、伊勢原・寒川・茅ヶ崎の市街が一望、其の先に相模湾が広がっている。この日は江ノ島もかすかに見えた。

大山名水 神泉納太刀(おさめたち)納太刀(おさめたち)旅人の画今度は一転して拝殿の地下へ。「大山名水 神泉」(左)が龍の口からこんこんと湧き出ている。殖産・長命延寿の泉だ。

その先に展示されているのは「納太刀(おさめたち)(右) で納められた太刀。二子・溝口宿に掲示されていた納太刀のイラストに偽り無しであった。納太刀には次のような云われが。
源頼朝公は平家打倒のために挙兵するにあたり、大山阿夫利神社に太刀を納めたと伝えられている。この事柄は民衆にも広く知られるようになり、人々は競って木刀を納めるようになったのだとか。

 ここからは日向薬師へ向うハイキングコースです。

山頂からの下山道大新稲荷神社帰りはH氏の提案で日向薬師へ下っていくことに。まずは「山頂からの下山道」(左)に入り見晴台まで登った後、日向薬師へ向うハイキングコースを下って行く。

下山道を登って数分、道脇に真っ赤な鳥居と小さな祠があるがここは阿夫利神社の摂社「大新稲荷神社」(右)。お参りすると運気がアップするのだそうだ。宝くじを買ったら当たるかも。

二重の瀧二重社その先に見える滝は断崖より突如として湧水し二段に流れ下ることから その名も「二重の瀧」(左)。江戸時代、大工・鳶・左官職等の代表者が新年早々にこの滝に打たれ心身を清めてその年の賃金を決議したのだとか。

滝の隣は阿夫利神社の摂社である「二重社」(右)。霊験あらたかで真摯なる祈りを捧ぐとき神威炳呼、諸願必ず成就。

見晴台山頂は雲の中30分ほど登っただろうか 「見晴台」(左)に到着。 ここは頂上から下ってきた登山者の休憩所。木製のテーブルとベンチが用意されており多くの登山者が休憩しながら景色を楽しんでいる。

名前のごとく見晴らしが大変良く、天気が良ければ都心の景色まで眺望できる。背後には大山の山頂が見えるはずだが この日は生憎と雲が低い。残念ながら「山頂は雲の中」(右)であった。

日向薬師へ向かう急な下り坂勝五郎地蔵見晴台を出発し日向薬師へのハイキングコースへ入ると まずは「急な下り坂」(左)。其の先しばらくは尾根道。だが両側が林なので眺望はよくない。晴れていれば木漏れ日が気持ち良いことだろう。

尾根道が終わった所にお地蔵さんが一体。柔和なお顔で登山者を迎えてくれるお地蔵さんは嘉永6年(1853)の建立で 彫ったのが地元の石工・勝五郎だったことから「勝五郎地蔵」(右)。

やっと車道にハイキングコース入口表示ハイキングコースはこの先から九十九曲の下り坂。足場が良いとはいえない道を右へ下り、左へ下りの連続。「やっと車道に」(左)出たのも束の間。九十九曲は車道を横切ってさらに下っていく。

日向ふれ合い学習センターの建物が見えたときはホットしたものだ。丸木橋を渡ると「ハイキングコース入口」(右)の看板が見えて九十九曲が終わる。舗装道路がなんと歩きやすいことか。

石雲寺ジャンボかかし日向薬師に向って10分ほど下ると「石雲寺」(左)という禅宗の寺があるが寺名の由来にロマンがある。およそ1300年前の養老2年(718)、華厳妙瑞法師が山中の石上で瞑想していると 河原の石の上に紫雲がたなびいたという。この縁起にちなんで石雲寺と命名したのだとか。

さらに下ってくると小さな田んぼの中に鉄砲を構えた「ジャンボかかし」(右)が。伊勢原里山研究会の皆さんが作製した案山子。実った稲を食べにくる猪が現れたら一発ズドンと。

もう少しで日向薬師という所まで下ってくると「日陰道」(下)と記された表示板が。多少回り道になるが寄り道することに。
日陰道日陰道日陰道日陰道
山裾の小径あり、林の中の土道あり、小さな田んぼで刈った稲藁の野焼きの風景あり、少し前なら満開の曼珠沙華も見られたことだろう。
この道は鎌倉時代からあった日向道。ちょっと遠回りしてしまったが思わぬ古道歩きであった。

いしば(衣装場)日向薬師山門階段を上ると日向薬師であるが階段下のこの場所は「いしば」(左)と呼ばれている。建久5年(1194)8月、娘の病気平癒を祈願に来た源頼朝がこの場所で旅装を解き白装束に着替えたことから衣裳場といわれていたが、現在はなまって「いしば」。

階段途中の「山門」(右)から参拝者に睨みを利かせているのは阿吽の仁王像(金剛力士像)。元の仁王像は天保元年(1829)の火災で焼失してしまったが天保4年(1833)に鎌倉の仏師・後藤慶明が復元。

階段を上ったら、 おットー ここは工事現場ではないか。「平成の大修理」(左下)と書かれた掲示板が。   日向薬師のHPはこちら。

平成の大修理鐘堂奈良時代初頭の霊亀2年(716)に僧行基によって開山された日向薬師(日向山 霊山寺)は日本三大薬師の一つ。廃仏毀釈で多くの堂宇を失ったが別当坊であった宝城坊が残り寺籍を守っている。その宝城坊(現本堂)は万治3年(1660)に建てられたもので国指定の重要文化財。解体・修理は2017年まで行われる。

工事現場の脇で肩身の狭そうな「鐘堂」(右)は宝暦13年(1763)銘の棟札がある古建築。吊るされている銅鐘は暦応3年(1340)の銘文を持ち国指定の重要文化財。


日向薬師へ寄り道をしたが山中でお地蔵さんに出合ったり、ジャンボかかしを見たり、最後はお薬師様にお参りしたりと いつもとは違う経験が出来た街道歩きであった。次回からは再び矢倉沢往還の旅。

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