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赤坂御門から三軒茶屋
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三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)
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三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道
)
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二子溝口宿
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荏田宿
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平安時代の道
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竹之下宿
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御殿場
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裾野から沼津
N矢倉沢宿
やぐらさわじゅく
街道地図
矢倉沢関所が置かれたことから関場と呼ばれ数軒の旅籠と米屋・豆腐屋・履物屋 等々の商店が軒を
並べており 富士講・大山講の旅人や物資を運ぶ人馬で賑わっていた。『旧旅籠立花屋』の表札が掲げ
られた家や関所跡の石碑が建てられているなど宿場時代の面影が少しだけ残っている。
宿場の前後は山中の足柄古道を歩くのだが往時の旅人が寂しい山道を歩き、やっと宿場に到着した
ときの安堵感が実感できる。
平成26年2月3日
関本宿を出て足柄神社に立ち寄った後、山中の道を歩き猪除けのゲートを抜けると
「足柄古道」
(左)の表示があり その下に 「4〜5分で矢倉沢」 とある。この先はずっと下り坂が続くが矢倉沢宿までもうすぐだ。
「坂を下ってきた足柄古道」
(右)は県道78号を横切ってさらに下っていくのだが、その入口の掲示板に記されているのは
矢倉沢往還と旧旅籠・関所跡
。
矢倉沢宿へ入る前にちょっと寄り道を。県道を左に曲がると
石塔群
があるがその中に
「芭蕉句碑」
(左)が。
目にかゝる 時やことさら 五月富士 芭蕉
安政4年
(1694)
、芭蕉最後の帰郷の際ここを通り詠んだ句。
県道を横断し坂を下るとすぐに
「旧矢倉沢宿」
(右)の家並。 大正時代ごろまで道の両側に旅籠や商店が並んでいたおり 今でも江戸時代の屋号が健在。
集落の終わり近く、白壁の屋敷は
「旧旅籠立花屋」
(左)。その他に江戸屋、富士屋、常陸屋の3軒の旅籠があり、米屋、油屋など数軒の商店が軒を並べていた。
立花屋の先は
「矢倉沢関所跡」
(右)。 説明板に「江戸時代に入り箱根の関所が整備されるとその脇関所として設置され小田原藩が管理」とある。
明治に入り関所は廃止されたが未光家に通行手形などが保存されているそうだ。その未光家前庭には
矢倉沢関所跡碑
。
矢倉沢にはもう一か所 関所があった。
立花屋と関所跡の間の細い道を上り県道を越えて10分ほど歩いたところの石村家が
「裏関所跡」
(左)。裏関所は矢倉沢本村から矢倉岳を越える裏道をおさえるための関所で、農作業の村人は通したが旅人は一切通さなかったという。
街道に戻りその先の集落を抜けたら道なりに行きたくなるが ここは
「右へ上る細い道」
(右)が足柄古道。切通しとなった県道を横断し再び山中へと入っていく。
県道を横断してしばらく山道を上ると
「足柄古道」の表示がある。
その先にまたまた猪除けのゲートが。
茶畑がありました。足柄茶でしょうか。
ほどなく県道に合流。
合流点には「足柄古道入口」の表示。
県道の緩い坂道を上っていくと
「家康陣馬の跡」
(左)なる場所がある。 天正18年
(1590)
、太閤秀吉が小田原城の北条氏を攻めた時、徳川家康がこのあたりに陣をしいたという。
家康陣馬の跡 の先にあるバス停
「足柄古道入口」
(右)から再び山中の道に入っていく。
ここから平成26年2月3日
さっそく、江戸時代から旅人を優しく
見守っていた石仏が出迎えてくれる。
すぐに山中の土道となり、江戸時代の
矢倉沢往還を歩いているような。
その先は車道に並行し、整備された
ハイキングコース。
歩道橋のような所も。
ほどなく
「矢倉沢定山城跡」
(左)に差し掛かるが説明板が無ければ通り過ぎてしまっただろう。足柄古道の東尾根上にあった中世の城郭で、大森信濃守氏頼が相模進出の足掛かりとして築城した城であった。
そのすぐ先に
「ひじ松の説明板」
(右)が建てられている。源頼朝がここで月を鑑賞したとき 松の枝が邪魔だったので折り曲げたところ それ以降どの枝も肘を曲げたようになってしまったのだとか。2代目松があるということだが残念ながら見当たらず その近くに
鳥居と祠
が見つかったのみであった。
山中の道を下って集落に近づいたら長者橋を渡って右へ曲がっていくのが矢倉沢往還だが寄り道したいので左へ。
向かった先は
「夕日の滝」
(左と右)。高さ23mの滝は夕日に映えるその美しい姿からこの名称が付けられたという。
勇ましく水煙をあげる男性的なことから「雄飛の滝」と呼ばれたこともあった。
また金太郎伝説とも深い関係がある。 源頼光
(平安時代中期の武将)
の四天王の一人である坂田金時
(幼名金太郎)
は地蔵堂で生まれ産湯にはこの滝の水が使われたと伝わっている。
夕日の滝から長者橋まで戻ると その先の左側は
「金太郎の生家跡」
(左)といわれる四万長者屋敷跡。
四万長者には八重桐という美しい娘がいたが その娘が生んだ男児が足柄山の金太郎。
金太郎は長者の家の前の田んぼの中にある
「遊び石」
(右)や山にいる動物たちとふれあって大きくなった。
もう少し下ると地名にもなった
「地蔵堂」
(左)の横。この地蔵堂は昭和50年
(1975)
の火災で焼失後に再建されたものだが、
本尊の地蔵菩薩
は南北朝時代末から室町時代初期の作と考えられている。現在は収蔵庫に納められているので拝観することはできない。
街道は地蔵堂前から左に曲がっていくのだが その突き当りにある
「万葉うどん」
(右)の梅づくし
(季節限定)
が旨かった。ほとんどが山中の歩きという足柄古道だが唯一食事ができる場所。
街道に戻ると一段高い所に真新しい祠が見える。覗いてみると夫婦道祖神が祀られているではないか。矢倉沢往還には夫婦道祖神が大変多いがこれだけ大事にされているとは、幸せな道祖神だ。
その先は
「旧道と新道」
(右)が上下に分かれて並行している。もちろん旧道を歩くが10分ほどで新道と合流。
そ先の
相の川橋
を渡ったら左に曲がって山の中へ入っていくのだが道が途中で消滅。ここは右へ曲がってヘアピンカーブの車道を歩くことに。
ほどなく現れた「足柄古道」の表示に従って
山中の道へ。入口に大きな石碑がある。
石碑脇を通って階段を上るとまさに山道。
江戸時代もこんなだったのだろうか。
この先、何回も県道を横断して山中の道に入るが
入口には必ず表示があるので迷うことは無い。
今は冬枯れで比較的明るい林だが、夏場は
鬱蒼とした森になるのだろう。
林の中をしばらく歩いて階段を上ると県道に出るが その先にあったのは
「見晴らし台」
(左下)。ここにある説明板に次のようなことが記されている。
足柄古道
*奈良時代には官道として東西を結ぶ重要な道路であった。
*9世紀の初めごろは富士山の噴火で通行が途絶えたが1年後には復旧した。
*万葉集や更級日記などに足柄峠や古道の様子が書かれている。
*戦国時代には古道沿いに国境防御の目的で多くの城郭が作られた。
*江戸時代に矢倉沢往還(脇街道)となり、物資輸送や富士講の人々で賑わった。
僅かな区間だが
「石畳道」
(左)もある。
見晴らし台でしばしの休憩をした後、再び山中の道に入っていくのだがここまで来れば足柄峠が近い。
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