表紙へ戻る


矢倉沢往還  道中記

赤坂御門から三軒茶屋三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道二子溝口宿荏田宿長津田宿下鶴間宿国分宿
            ⇒厚木宿宿愛甲糟屋宿大山阿夫利神社善波峠曽谷宿平安時代の道千村宿松田惣領宿 関本宿矢倉沢宿竹之下宿御殿場裾野から沼津

D長津田宿                     街道地図
     ながつだじゅく .                       
荏田宿と共に江戸時代初期に宿駅に指定された長津田宿は 戦国時代から江戸末期まで旗本岡野家が知行しており、
江戸時代末ごろには旅籠や商店など50軒ほどが軒を並べていたという。 しかし昭和28年(1953) の大火と
平成14年(2002)から始まった道路整備で往時の面影はすっかり失われてしまった。

 平成25年7月31日

荏田宿から長津田宿までの間は宅地開発によって矢倉沢往還の旧道はほとんど消滅。旧道に近い道を選んで歩かざるを得ない。「再勝橋」(左)で国道246号を横断し坂道を下って青葉台駅の近くに出るのだが、この辺りは旧道がすっかり消滅。

青葉台交差点から10分ほど歩いた青柿という懐石料理店裏辺りが「旧道らしき道」(右)の雰囲気がある。が、なんともいえない。

その先も住宅地の中の道を歩くのだが思わぬ所に僅かな区間だが旧道が残っていた。場所は地図を参照していただきたいが 住宅地の中に残された墓地の中に中世に建立された2基の「宝筺印塔」(左)がある。

元亀4年(1573)銘の供養塔で恩田郷に住んでいた糟谷清印という武士が両親の供養目的で建立したもの。その墓地横の下り坂はこの塔にちなんで石塔坂と呼ばれており わずかに残った旧道。

石塔坂を下ると文化5年(1807)銘の「供養塔道標」(右)が建てられている。旧道は国道246号の向こう側へ続き右に下っていくが その先は消滅状態。

さすがに「国道246号」(左)は横断できない。また、その先は消滅状態なので右側の歩道を下っていくのだが この直線が長い。途中に見えた川は鶴見川の支流・恩田川

ほどなく片町交差点に到着。交差点先の「右側に入る道」(右)が旧矢倉沢往還(大山街道)。その先でJR横浜線のガードを潜っていくのだがこ の辺りは何となく旧街道の雰囲気が残っている。

旧道に入って5〜6分、広い道路に合流するがその合流際にあるのが「片町の地蔵堂」(左)。 三体の内、真ん中の地蔵は道標もかねており刻まれている行き先は「向テ右かな川 左みぞノ口」。

合流した広い通りが「旧長津田宿下宿辺り」(右)であるが昭和の大火と道路各幅工事が行われたため宿場時代の面影が全く無くなってしまたのが残念。

 数分歩くと左側に新しく整備された「常夜灯と石塔群」(左)の広場がある。常夜灯はかなり修復されているが文化14年(1817)の建立だとか。(道路拡幅工事が行われる前は右側にあった)

すっかり変わってしまった旧長津田宿を 長津田駅南入口交差点 まで歩いたらちょっと寄り道を。

向った先は大林寺。左折して緩い坂道を下り開かずの山門や延命地蔵を見ながらその先を左に曲がると平成19年(2007)に完成した立派な「大林寺仁王門」(右)が出迎えてくれる

大林寺は元亀元年(1570)、小田原北条氏の家臣であった岡野越中守融成によって開山、その嫡子房恒によって天正19年(1591)に菩提寺として大林寺を建立したと伝えられている。

その「岡野家の墓所」(左)が本堂裏手の墓地内にあり融成供養塔や房恒逆修墓など33基の石塔が。

墓地内には大魔術師「初代引田天巧の墓」(右)もあった。墓石の後ろには森繁久弥さん直筆の碑も据えられている。
     神技 心魂を燃やして衆と遊ぶ 鬼才 その旅の短きを悲しむ  森茂久弥

本堂左手の「鐘楼」(左)は長津田十景の一つ「大林晩鐘」。 夕靄に包まれた鐘の音が心に響く そんな風景だろうか。

大林寺のちょっと先、マンション入口に道路に背を向けてひっそりと建っているのは 「お七稲荷」(右)。お七とは八百屋お七のことだが、お七の墓は成田街道・大和田宿にある。何故ここに お七が。

岡野家第3代房勝は八百屋お七事件を担当した盗賊追捕役の中山勘解由と同職であったことから岡野家の不幸はお七の祟りではないかと、お七稲荷を祀って霊を慰めたのだとか。 

街道に戻り4〜5分歩くと右手に上り坂が見えるがこの坂は大石神社の女坂

女坂の途中にある「上宿常夜灯」(左)は宿内の秋葉山講中が天保14年(1483)に建立したもの。当初は女坂麓の右側にあったが大山街道の各幅工事で移転。その後現在地に移築。

女坂を上り詰めた先の「大石神社」(右)は御神体が楕円形の自然石なのだとか。祀られているのは在原業平だが大石と業平の間に次ぎのような言い伝えが。 土地の古老曰く、
在原業平が討手か賊に取り囲まれ周囲から火を放たれたが火勢が衰えたあとに人影なく大きな丸石がただ一個残されていたという。

大石神社の急階段を下り右に曲ると さらに右に曲る道があるが、その先に僅かな区間だが「旧道の草道」(左)が残されている。片側が擁壁のため昔のままとは言えないが趣ある旧道だ。

旧道はこの先で車道を横切り、さらに下ってさきほど分かれた道に合流。

合流して数分、三叉路の真ん中に「太郎茶屋・鎌倉」(右)と染め抜かれた暖簾と提灯が下がったお店が。ここは かつて歩かれた方々が目印にしていた「そば処大雅庵」であったが今は茶房。

太郎茶屋・鎌倉から4〜5分、田園都市病院の先にも旧道が残されている。

川崎国道事務所の大山街道・見どころマップに点線で示された道で 居合わせた地元の方も「そこだよ」と教えてくれた道。

病院の2軒先の民家脇から山に向う細い上り坂が「旧道」(左)だ。この先も整備された旧道が山の中を通っており国道246号横断のための地下道も用意されている。

あまりに良く整備されていながら表示が無いので一抹の不安があったが国道を横断すると数軒の民家があり、その先に小さな小さな「馬頭観音」(右)がある。間違いなく旧道なのでホッとするのであった。

ほどなく国道に合流。フィールドアスレチック脇を通り再び旧道を100mほど歩いたあと歩道橋で右側に渡るのだが上からみた「国道246号」(左)の混み具合は凄いね。さすが246だ。

歩道橋を降りたらちょっと先を右に曲がると、ここにも上り坂の旧道。 道なりに上っていくと「馬の背」(右)と呼ばれる尾根道。馬の背からの町田市街の眺望が素晴らしい。

僅かな区間だが素晴らしい眺望を楽しんだあとは再び国道に戻り すずかけ台駅 の横を通り こうま公園前 から歩道橋で左側へ。国道246号の側道へ入ったらちょっと寄り道を。

左に曲がり1〜2分、脇道に入った奥に「辻地蔵堂と横浜道祖神」(左)が鎮座。

このお地蔵様は町田街道(旧浜街道=絹の道)との交差点(辻)にあったのだが国道工事でこちらへ移設されたもの。優しいお顔をしています。堂の傍らにある石塔は横浜道祖神

国道を挟んだ反対側に「町田道祖神」(右)があるが こちらは昭和46年(1971)と刻まれているので つい最近建立されたもの。

街道はこの先で国道16号を横断し、しばらく歩いた後に国道246号を横断すると次ぎの宿場・下鶴間宿。

前の宿場荏田宿へ    次ぎの宿場下鶴間宿へ    表紙に戻る