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矢倉沢往還  道中記

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F国分宿こくぶじゅく                          街道地図
江戸より14里、下鶴間宿へ2里、厚木宿へ1里の国分宿は遠く天平時代に相模国分寺が築かれた地であるが
宿場として大きく発展することはなかった。 今ではその先の小田急線海老名駅周辺に賑わいが移っている。
今回の旅では渡辺崋山が少年の頃世話になった「あこがれのお銀様」を訪ねた小園村(現 海老名市小園)に寄り道
してから国分宿に向うことにする。

 平成25年9月11日
鶴間宿を出た後は矢倉沢往還碑をたどりながら かれこれ1時間半。緩い下り坂の両側は工場地帯。工場が終わった辺りでちょっと寄り道を。

かしわだい動物病院(旧土井獣医科病院)脇の細い道を4〜5分歩くと「富士塚の上に庚申塔」(左)が乗っている。

富士塚といっても今は 多少盛り土されただけの小さなもので庚申塔がなければ見落としただろう。庚申塔は文化3年(1806)に建てられたもの。

街道に戻るとちょっと先に銀杏の大木が見えるが その下に立つのは「不動明王が乗った赤坂道標」(右)。風化が進んでほとんど読み取れないが江戸道・神奈川道などの文字が刻まれていたのだとか。

赤坂道標の先から緩い上り坂となるが数分歩くとほっそりとした「道標」(左)が1本。こちらははっきりと読み取れる。 刻まれている文字は「左 大塚 原町田 右 国分 厚木」。

道標の先に「崋山ゆかりの道」と書かれた案内板があるが、これによると「 天保2年(1831)、渡辺崋山は少年期に世話になった あこがれのお銀様 を訪ねたのであった」 とある。
これはぜひ「お銀様への道」(右)を歩かねば。

左へ曲って住宅地の中を歩き 厚木街道を横断して階段を上がり4〜5分、正面に車止めが。

車道は右へ曲がっていくが正面の車止めから先は「古東海道」左)の草道。遠く奈良の都を出た役人や旅人が通り お銀様を訪ねた渡辺崋山も歩いた道であろう。

数分で古東海道から一般道に出るがその出口に宝暦6年(1758)「道祖神」(右)がひっそりと立っており、ここが街道であったことを教えてくれる。 その先に古東海道の説明板も。

古東海道を出て5〜6分、突き当たりを左に曲がると「地蔵堂」(左)があるが、室町後期頃の作と伝わる本尊の木造地蔵菩薩坐像は4月のご開帳意外は見ることができない。

その代わりに見えたのがなんと珍しい「涅槃釈迦如来像」(右)。この釈迦像は江戸時代の作だが地元の人達から寝釈迦さまと呼ばれて親しまれている。

地蔵堂から数分、 「JAさがみ早園支店」(左) の建物がある場所は渡辺崋山がお銀様に25年ぶりの感動的な再会を果たした場所。お銀様は三州田原藩主・三宅備前守康友の侍女であったが実母急逝で江戸藩邸から故郷へ。お銀様が江戸藩邸に居たころの渡辺崋山は14歳、まぶしすぎるお銀様であった。

その「お銀様の墓」(右)がもう少し先の墓地の一角にひっそりと立っていた。崋山がお銀様を訪ねた旅の様子は「遊相日記」に詳しく書かれている。

お銀様の墓を後にして戻った場所は厚木街道の「望地(もうち)交差点」(左)。矢倉沢往還は厚木街道を横切っているのだが、これから向う大山が真正面に望める場所。まさに望地だ。

街道はこの交差点から左に入っていく。 最初の丁字路を右に曲ると道路際に立っていたのは小さな「馬頭観音」(右)。 年代を経たように見えたが「昭和五十年五月建之」と刻まれているではないか。

昭和50年(1975)といえばつい最近。まだ馬頭信仰があったのですね。愛馬の追悼に建てたのだろうか。

馬頭観音の先から道なりに下り坂を歩き 厚木街道に合流。目久尻川を渡ったら右へ曲るとフェンスの向こう側に「石橋供養塔」(左)が建てられている。ここは当時としては大変珍しい石橋が架けられていた場所。宝暦(1751〜64)の頃、重田七三郎なる人物が浄財を募り架けたもの。その徳を偲んで供養塔が建てられたのだとか。

この先の道路際に展示されていたのが「石橋に使われた石柱」(右)。関東大震災で落下した石橋を河川改修のとき引き上げたもの。

供養塔から数分、五差路の真ん中にある石碑は「逆(さかさ)川碑」(右)。傍らの説明碑によると「大化の改新が行われたころ 潅漑と運送用に掘られた川で、平安時代まで使われていた」そうだ。

何故「逆川」なのかは説明碑の地図を見ると理解できる。この先に逆川の遺構が何ヶ所かあるが今回はパス

ここでちょっと寄り道を。街道から横に入った「伊勢山大神宮参道」(右)を上ると そこには大神宮ならぬ可愛らしい神社が。伊勢神宮を勧請したそうだが いつの間にか大神宮に。

街道に戻り緩い坂道を上りきると そこは大山街道と藤沢街道が交わる国分の辻。「東江戸道・西おお山 あつぎ道」と刻まれた庚申塔などの「石塔群」(左)の中に「・・・・・ 内務省」 と刻まれた石碑があったのは予想外。

この辺りは国分宿の中心地。石塔群対面の火の見櫓がある場所は「高札場跡」(右)だが明治以降も近くに村役場や駐在所などの公共施設とともに料亭や旅籠が軒を並べており賑わっていたが、今はその面影が全く無い。

国分の辻を過ぎると右奥に「国分寺跡」(左)が望める。 天平13年(741)、聖武天皇の詔勅により建てられた寺で東西160m、南北120mという大きさは多くの国分寺の中でも最大規模。

国分寺跡横の「温古館」(右)に復元模型が展示されているので一見を。相鉄海老名駅近くには七重塔が復元されている。

温古館は元々は国分の辻にあった大正7年(1918)建築の旧海老名村役場。郷土資料館として資料の展示を行っていたが耐震問題が生じたため平成23年(2011)に修復して現在地へ移築したもの。

街道まで戻ると目の前に見えるのは「海老名の大ケヤキ」(左)。かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽しこのような大木に成長したのだという。根回り15m、樹高20mとは立派。

大ケヤキ脇の参道を進み階段を上った先は「国分寺薬師堂」(右)。

相模国分寺は9世紀以降、衰退の一途をたどり ついには戦火でほぼ焼失。しかし高台にあった薬師堂は焼失を免れ室町時代に現在地に移転し国分寺の法灯を守っている。

薬師堂左手の鐘楼に吊るされている「梵鐘」(左)は国指定重要文化財。鎌倉時代の末ごろ、海老名氏の一族国分季頼が当時の名工・物部国光に鋳造させ正応5年(1292)に寄進したのだという。

鐘楼の対面にある地蔵堂の中に「尼の泣き水坐像」(右)なる如意輪観音が祀られているが次のような伝説が。
国分尼寺の尼さんが若い漁師と恋仲に。ある時、漁師が浮かぬ顔であるため尼が尋ねると国分寺が明るく輝くので魚が逃げてしまい漁が出来ないという。その夜、尼は国分寺に火を放ってしまうのであった。捕らえられた尼は生き埋めにされたのだが不思議なことにその場所から湧き水が流れ出したのだという。これは尼の懺悔の涙だとか。

街道に戻り下り坂を数分歩くと「厚木街道」(左)に合流。するとそこは賑やかな商店街。賑わいは国分宿から完全に移ってしまった。

小田急線の跨線橋を渡った先の歩道フェンスに 「いちおおなわ」 と記されたプレートが嵌めこまれているが ここは「一大縄跡」(右)。 大化の改新による律令で水田は6町間隔に整地されたが、その基準となるのが東西に走る一大縄。ちなみに海老名の道路は碁盤の目になっているが当時の畦道がそのまま道路になったようだ。

JR相模線の踏切りを渡りしばらく歩くと 河原口の七曲り へと入っていく。今は路地が1本無くなっているため六曲りとなってしまったが それでも慎重に歩かないと街道を外れてしまう。

4ヶ所目の曲がり角に 「庚申塔道標」(左)が据えられていたので間違わずに歩いてきたようだ。かなり風化が進んでいるが側面に右大山 と読める。

七曲りの最後を右折し高速道路の高架下を通ると その先は「相模川」(右)で渡しがあった場所。川の向こうに大山が。

 渡し跡なので説明板ぐらいはあるかと思っていたが俳句が記された「標柱」(左)が1本あるのみだった。
  爛漫の 櫻堤に 渡船跡

対岸に渡るにはもう少し下流の「あゆみ橋」(右)を渡っていくのだが橋の袂のモニュメントを見ると帆掛け船が。かつては帆掛け舟が行き交う長閑な川だったのだろう。
 


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