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矢倉沢往還  道中記

赤坂御門から三軒茶屋三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道二子溝口宿荏田宿長津田宿下鶴間宿国分宿
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I糟屋宿かすやじゅく                          街道地図
鎌倉時代初期、鎌倉幕府の御家人でありこの地の荘司であった糟屋藤太有季の名が地名となっている。
人馬の継ぎ立てが行われており 下・中・上の三宿には旅籠、問屋、万屋などが並び大山参詣の旅人で
大変賑っていた。明治34年(1901)の大火で宿の多くが焼け今は宿場時代の面影は残っていない。

 平成25年9月26日
小金塚古墳を見るためにちょっと寄り道してしまったが小田急線の踏切りを渡って街道に復帰。

10分ほど歩くと成瀬小学校の横に真新しい「白金地蔵」(左)が鎮座。この地の茂田半左衛門によって万延元年(1860)に建立された地蔵が平成8年(1996)の台風で倒壊してしまったが地元有志によって再建。

街道はこの先の歌川橋を渡り広くなった県道22号を横断して緩い坂道を上っていく。
上り坂の途中に各所から集められた五輪塔や馬頭観音、道祖神などの「石仏群」(右)が。道祖神は比較的新しいが矢倉沢往還にはこのような双体道祖神が結構多い。

坂を上りきったところで左から来る大山街道柏尾道と合流して右へ曲っていく。この辺りから糟屋下宿に入るのだがバス停には「粕屋下宿」(左)と記されている。せっかく停留所名を宿場名にしたのに 粕屋 とはナー。

数分歩いて普済寺に寄り道をしたのだが、天保9年(1838)に建立された「石造多宝塔」(右)が東日本大震災でなんとも無残な姿に。文化元年(1804)、徳川幕府は北方防備の鎮めとして蝦夷地に三官寺を創建。派遣された文道玄宋が任期を終え帰山後、北辺の地の安泰を願って神宮寺に建立。その後普済寺に移転。
修復後の姿がこちらです。

普済寺を出たらもう一ヶ所寄り道を。100mほど先を左折し道灌橋を渡って左に曲がった先は太田道灌の菩提寺「大慈寺」(左)。大慈寺は貞治5年(1366)鎌倉に開山、文明18年(1486)に太田道灌がこの地へ移して再興したと伝えられている。

その「太田道灌の墓(首塚)」(右)が先ほど渡った道灌橋の上流側にある。文武両道に優れた道灌だが その有能さが疎まれ上杉忠正の居館であった糟屋館で暴漢に襲われ暗殺されたのであった。

街道に戻り数分、街道際の鳥居奥は「高部屋神社」(左)。由緒に「創建年代は不詳なるも紀元前655年とも言われている」と記された古社中の古社。 境内右手の梵鐘は神奈川県指定の重要文化財。至徳3年(1396)に河内守国宗によって造られ平英憲によって奉納されたという。

街道に戻り国道246号まで来ると右手に高台が見えるが、ここは平安時代から鎌倉時代初期に活躍した糟屋左衛門尉有季の居城であったと伝えられる「丸山城址」(右)。

街道に戻り東海大学病院の下をてくてくと十数分。渋田川に架かる せきど橋 の手前を上流方向に20〜30m歩くと「地蔵堂」(左)があり 中に咳止め地蔵が鎮座。この咳止め地蔵は享保8年(1723)に再建されたもので痰咳平癒の守護神として崇められているがそのご利益抜群。

せきど橋を渡ったらその先の市米橋交差点を横断する道が矢倉沢往還だが、今回は大山阿夫利神社に寄り道するので右へ。すぐに県道63号に合流し その先のヤマト運輸倉庫前から左に曲がる細い道に入ると、なんと、「土道の旧道」(右)が残されているではないか。

わずか数分だが土道の感触はいいね〜。 その先の「峰岸団地入口交差点」(左)は大山街道と平塚・伊勢原方面から来る津久井道とが交差する場所で多くの人が行き交う賑やかな場所であった。
ここに3軒の茶屋があり旅人はここで一服したそうだが今でもこの辺りを三軒茶屋という。

交差点を通り過ぎ次の三叉路を左に入ると 「秋ですね〜」(右)。 猛暑が続いたというのに彼岸が来たらちゃんと咲く曼珠沙華、几帳面な花だ。

街道はこの先で東名高速に突き当たってしまうが左に曲がるとトンネルがあるのでここを通って向こう側へ。

トンネルを出ると道路向こう側に「東〆引道標と道祖神」(左)が見える。刻まれている文字は「右 いゝやまみち 七五三引村  左ひなたみち」と。はて、七五三引村? これで 「しめひきむら」 と読むのです。

大山街道はこの道標の右側を通っているのだが寄り道したい所があるので左側へ。

向った先は登録有形文化財の「山口家住宅」(右)。山口家は江戸時代中期より名主を務めた名家。 この建物は上粕屋の石倉から幕末に1km近くを引き屋をしてこの地へ移設。

山口家住宅のすぐ先にある 「阿夫利神社二の鳥居」(左)は東海道の藤沢から出発した大山街道田村道に嘉永4年(1851)に建立されたが関東大震災で倒壊し昭和3年(1928)に再建、さらに平成3年(1991)に現在の鳥居に再々建。

大山街道田村道はこの先1kmほどの石倉で先ほど分かれた大山街道(赤坂道)と合流し大山阿夫利神社へ向っていく。

もう一ヶ所寄り道を。この先の「上行寺」(右)は小田原に開創されたが慶長元年(1596)に江戸に移転、昭和38年(1963)に現在地へ。門を入った右側のソテツは遊女嘆きの蘇鉄と呼ばれている。

上行寺には江戸時代の著名人の墓が多い。
江戸・元禄頃の俳人。
十四歳頃松尾芭蕉の門に入る。芭蕉の
臨終に際し、「芭蕉翁終焉記」を著す。
宝蔵院流槍の達人。
由比正雪の反幕府陰謀に参加。秘計を
漏らしたため捕まり鈴ケ森で処刑される。
江戸時代初期の医師で蘭学者。
将軍家治の待医となる。後に杉田玄白、
前野良沢らと解体新書を著す。
江戸時代初期の将棋師将軍秀忠の前で
本因坊算砂と将棋を囲み、技量を認められ
十石5人扶持を与えられる。

東〆引の道標前まで戻り再び大山街道(赤坂道)の旅に。

すぐに「土道の旧道」(左)となり江戸時代を思わせる街道歩き。脇を流れる川は千石堰用水と呼ばれ この先に上杉定正の屋敷があった頃、有事の際 空掘りに水を入れるための用水であった。

ほどなく十字路に差し掛かるが ここの石塔は「三所石橋造立供養塔」(右)。用水に掛けられた台久保橋、石倉橋、川上橋を供養するためのもので享和2年(1820)に建てられたもの。

街道は十字路を真っ直ぐ進むのだが ここでは右に曲って寄り道を。

向った先は洞昌院。太田道灌が関東官領上杉憲実の弟 道悦和尚のために建てた寺と伝わっている。洞昌院には山門が無いがこれは次のような云われから。 上杉忠正の居館で暴漢に襲われ洞昌院まで逃げた道灌だったが山門が閉じられていたため中に入れず落命。以来山門は設けていない。

道灌の遺骸は洞昌院の裏庭で荼毘に付されたという。本堂の隣に「太田道灌公霊廟」(左)、墓地の外れに「太田道灌墓所」(右)が設けられている。

道灌公墓所から100mほど西側の十字路際の塚は「七人塚」(左)と呼ばれる墓。
道灌が上杉定正居館で暴漢に襲われたとき上杉方の攻撃を一手に引き受け討ち死にした家臣7名の墓だが、明治末の開墾で破壊され残ったのは伴頭の墓石が一つだけ。

ちょっと寄り道してしまったが街道に戻ることに。途中の太田神社は道灌とは全く関係ない。道路際に「石塔3基」(右)がひっそりと立っている。道標に刻まれた文字は「上大山道 下戸田道 厚木道」。

細い道をもう少し上ると畑の端に「庚申塔道標」(左)が3基。元々は街道からちょっと外れた三ノ宮付近にあったものを移設。風化が進んでおり文字が読みずらい。

街道はほどなく変則4差路に差し掛かるが、ここを左に曲がり突き当たりで大山街道田村道と合流して右へ曲ると「大山が正面に見える」(右)。

次回はいよいよ大山登山。

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