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矢倉沢往還  道中記

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O竹之下宿たけのしたじゅく              街道地図
足柄峠や甲斐へ向かう篭坂峠への分岐点であった竹之下宿は多くの旅人で賑わっており、
遠くは源頼朝、義経や日蓮らも宿泊したという。また、朝廷から派遣された新田軍と朝廷に
叛旗を翻した足利尊氏軍が戦った竹之下合戦の場でもあった。

 平成26年2月3日

県道を何回も横断しながら山道を上ってきたが「石畳の道」(左)もありました。

その先の県道にニアミスしたところで道は二手に分かれるが、ここを右に行くと僅かな区間だが九十九折(つづらおり)と呼ばれるジグザグに曲がった上り坂。

九十九折が終わった先に「源頼光の腰掛石」(右)と記された説明板がある。 だが説明文はほとんど読めない。目の前にちょっと大きな石が転がっているがこれが腰掛石?

ほどなく県道に合流。1〜2分歩くと「首供養塚」(左)なる物騒な名前の塚が。その昔、盗賊や関所破りを処刑し さらし首にした場所が首塚。

そのすぐ先に足柄峠一里塚があったのだが今はその痕跡も無くなり「足柄峠一里塚碑」(右)がひっそりと立っている。 
かつては甲斐と相模を結ぶ重要な街道で多くの旅人で賑わっていたという。

一里塚跡の先、広場の奥におじぎ石と「足柄之関跡」(左)と記された標柱が建てられている。出没する盗賊を取り締まる目的で昌泰2年(899)に設置された関であったが鎌倉時代には廃止。 標柱の横には黒沢明監督の映画「乱」に使われた立派な冠木門があったのだが今はその門も無くなりちょっと寂しい。

広場入口に 「あずまはや」(右) と記された標柱が建てられているが説明板に 「倭建命(ヤマトタケルミコト)、東征の帰途、足柄峠にて あずまはや  とのたまう。」とある。

あずまはやの斜め向うに見えるのは「足柄山聖天堂」(左)。本尊は歓喜双身像。元は京都にあったが時の役人が「これは風紀上よろしくない」と海に流してしまったとか。流れついたのが相模国・早川。土地の者が拾い上げ弘法大師が足柄山に勧請したのだという。

聖天堂を出るとすぐ先は「足柄峠」(右)。関本宿を出てからはどこまでも続く山中の上り坂であったが、ついに標高759mの足柄峠に到着。これからは駿河国(静岡県)の旅。

峠の道路向う側に「新羅三郎義光吹笙之石」(左)が鎮座。
時は寛治元年(1087)、後三年の役で兄八幡太郎義家の応援に向かった三郎義光は戦死を覚悟。 父より授かった秘曲を相伝すべく、この石に座り伶人豊原時秋に笙の奥義を伝えたという。

振り返ると「足柄城址碑と説明板」(右)が見える。足柄城は平安末期ごろから築城が行われ 北条氏の時代に本格的な城郭となったが天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻め後に廃城。

階段を上ると、そこは「主郭跡」(左)。その先に二の郭、三の郭と続き、さらに四、五の郭が足柄街道に睨みを利かせていた。主郭には玉手池という水量豊富な池があったが残念ながら今は水が無く藪の中のちょっとした窪地。

この先は古道歩きからは外れるが城内の遊歩道を歩くことに。 二の郭、三の郭を抜けると「井戸跡」(右)などもあり、結構楽しめる。

城内の遊歩道から県道に戻るとその先に見えたのは舟形光背を持った「上の六地蔵」(左)。銘が無いためいつ頃彫られたのか不明だが江戸時代から旅人を見守ってきたのだろう。50〜60m先にも八体の地蔵様が鎮座しているが こちらは下の六地蔵

六地蔵のすぐ先、崖の上に見えるのは「芭蕉句碑」(右)。
 目にかゝる 時やことさら 五月富士   芭蕉
この句碑が建立されたのは嘉永三年(1850)か四年ごろ。

芭蕉句碑の対面に「足柄古道入口」(左)があり土道が藪の中を下っていく。10分ほど下ると道の傍らに小さな「馬頭観音」(右)があるが これは安永3年(1774)建立。

海産物や塩は馬の背や人の背に載せられ峠を越えて運ばれたが難所も多く荷馬の遭難もしばしば。 これを憐れんだ村人が観音様を建て道中の安全を祈願したのだという。

この道は明治末期まで甲斐と相模を結ぶ重要な街道で赤坂道と呼ばれ旅人の往来も多かった。
 

古道は馬頭観音の先で県道に合流し車道を下っていく。ほどなく赤い欄干の橋を渡るがこの橋は「伊勢宇橋」(左)。
江戸時代、浅草の豪商伊勢屋宇兵衛は、 晩年、交通不便な地に橋を架けることを思い立ち八十八カ所の橋を架けたが ここはその85番目。橋を渡った所にある小さな石碑は伊勢宇橋碑

伊勢宇橋のすぐ先にある石塔は天保10年(1839)に建立された「唯念上人名号塔」(右)。 南無阿弥陀佛と刻まれた文字は唯念上人の書を彫ったもので石塔の高さが3.8mという大きなもの。

伊勢宇橋を渡ってかれこれ15分、県道が左に曲がっていくがその右側の小山は現存の「竹之下一里塚」(左)。ちょっと小ぶりの一里塚だが塚の頂上にあるのは 竹之下一里塚と刻まれた石碑。

足柄古道は真っ直ぐ下っていく。途中には天保、宝暦などと刻まれた「馬頭観音」(右)もあり舗装されていなければ 古道 という雰囲気たっぷりの道だ。

集落まで下ってくると左手奥に鎮座しているのは「嶽之下神社」(左)。 江戸時代には熊野大権現であったが大正時代に周辺2社を合祀して嶽之下神社に改称。真新しい社殿は不審火で焼失後に再建されたもの。

街道沿いの鳥居脇にある庚申塔がなんとも味がある。

鳥居脇を左に曲がって宝鏡寺に寄り道を。朱鮮やかな「仁王門」(右)が印象的だが、御本尊は 竹之下のお地蔵さん と呼ばれている地蔵菩薩。なんと、この地蔵像は聖徳太子が彫られたのだとか。

嶽之下神社まで戻ったら「馬喰坂」(左)を下るのだが、下った所に建てられていたのは「馬喰坂碑」(右)。江戸時代、竹之下は物資の荷継ぎ場で牛や馬の需要が多く その売買や周旋をする商人(馬喰)が多かったという。

坂の途中で見たのは可愛らしい夫婦道祖神や道標を兼ねた馬頭観音などの石仏群

 ここから平成26年2月28日

坂を下りきったら丁字路を右に曲がりJR御殿場線の踏切を越え、その先の「千束(ちずか)橋」(左)を渡っていくが この橋には次のような伝説が。
時は建武2年(1335)、朝廷側の新田軍と叛旗を翻した足利尊氏軍が戦った竹之下合戦の戦場がこの辺り。退く新田軍が橋を落としてしまったため追う足利軍は薪を千束投げ入れて橋の代わりにしたという。

橋を渡った左側に「竹之下合戦跡碑(右側の石碑)(右)が建てられている。

千束橋のすぐ先の階段は「常唱院参道」(左)。傍らの石碑に「時は文永11年(1274) 日蓮 旅の道すがら宿求めし常唱院 春は桜の眺めよし」とある。残念ながら今日はまだ2月、桜にはちょっと早すぎた。

さらに数分、小山町足柄支所入口に建てられている大きな石碑は「竹之下古戦場碑」(右)。
竹之下に陣を敷いたのは新田義貞の弟、脇屋義介を大将とする七千。そこに攻め入ったのは足利尊氏軍3千。 夜明け前に奇襲攻撃をかけられた新田軍は総崩れ。

街道はその先で直角に左へ曲がるが その曲がり角に「常夜灯と半鐘」(左)が。常夜灯と半鐘、妙な取り合わせだね〜

曲がった先が「旧竹之下宿」(右)。宿場時代の屋号を掲げている家が何軒かあり宿場時代を想像させてくれる。

その先の交差点向うに常夜灯や馬頭観音、道祖神などの「石塔群」(左)が見える。道路各幅工事で邪魔になったものが集められたのではないだろうか。

石塔群の脇を通って住宅地を抜けると山中へ分け入る道となるが この上り坂は「有闘坂」(右)。今は誰も通らぬ静かな道だが竹之下合戦では新田軍、足利軍の兵士が駆け抜けたのだろう。

有闘坂(うとうさか)を上り切った先は舗装された広い道に代わってしまう。数分歩くと一里塚跡碑と説明板が建てられているが、ここは「有闘坂上一里塚跡」(左)。かつては杉並木が続く街道であったとか。 

その先の交差点際に「戦跡・釜沢」(右)と記された看板と石碑が建てられているが ここは湧水があったことから新田軍が兵量を炊いた場所と伝えられている。

交差点を越えた辺りが陣場だったようで道路際に建てられた石碑に刻まれた文字は陣場

陣場跡から数分歩くと「上横山遺跡」(左)と記された説明板が。
奈良時代初期(8世紀前半)ごろの遺跡で竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発掘されているそうで、注目は遠く奈良・平安京で発掘された物と類似の土器も発見されている事。

この先で東名高速の上を越え御殿場市に入っていくのだが日蔭には先日降った雪がまだ大量に残っており、ちょっと歩きずらい。


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