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矢倉沢往還  道中記

赤坂御門から三軒茶屋三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道二子溝口宿荏田宿長津田宿下鶴間宿国分宿
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B二子・溝口宿                   街道地図
  ふたご・みぞのくちじゅく
寛文9年(1669)に二子・溝口(みぞのくち)村が宿駅に指定され人馬継ぎ立てを行なうようになった。
後に二子村が独立し溝口村と二子村が交代で宿駅業務を務めている。やがて周辺の農産物などの
集積地となり、これらは二子から川を下って江戸に運ばれるなど輸送面でも重要な場所となっていった。
江戸時代中期から盛んになった大山講では木刀を担いで阿夫利神社に奉納する納太刀(おさめたち)という
風習があったが その様子がユーモラスに描かれて旧宿場内に掲示されている。

 平成25年7月11日

二子の渡し跡からはちょっと上流の「二子橋」(左)を渡って行くのだが歩行者や自転車が結構多い。 これまであちこちの大きな橋を歩いてきたが これだけ多くの歩行者が行き来する橋は珍しい。

橋を渡って神奈川に入るとポケットパーク「二子橋旧親柱」(右)が残されている。説明板によると橋の完成は大正14年(1925)、 江戸時代終了後も60年近く渡し舟だったようだ

橋が出来るまでは河原に茶屋・蕎麦屋などがあり船待ちの人、川遊びの人などで大いに賑わっていたという。

すぐ先の交差点際の 「大山街道説明板」(左)に 納太刀 冒頭の写真)という興味深い内容が記されている。云われは大山阿夫利神社のページに記してあります。

その交差点を右に曲り「二子の渡し場入口」(左)の標柱に従ってもう少し奥まで歩き二子神社脇から堤防を越えて多摩川の河川敷に入ると「二子の渡し跡碑」(右)が。二子の渡しはルートが何度か変わっているが写真のちょうど対岸の兵庫島までの時代もあり、もう少し下流の瀬田側二子の渡し跡碑辺りだった時代もあった。

河川敷から戻ると目の前に見えるのは「岡本かの子文学碑」(左)。 このモニュメントは息子の岡本太郎がデザインしたもので台座は丹下健三氏の設計。
代表作 老妓妙の末尾に掲げられた歌が歌碑となっている。
     としとしにわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり

すぐ隣の「二子神社」(右)は寛永18年(1641)の創建とされる二子村の村社。渡し船の時代は参拝者も多かったのだろうが今はひっそり。コメント:神奈川県神社庁のHPでは創立年代不詳。 

街道に戻り数分、公園入口に大貫家の人々 と記された案内板が立てられているがここは「岡本かの子生家跡」(左)。

かの子は豪商・大貫家の長女として東京青山の大貫家別邸で生まれたが腺病質であったことから幼少期は二子の本宅で養育母に育てられていた。

対面の光明寺は大貫家の菩提寺で、かの子の兄「大貫雪之助の墓」(右)がある。第二次新思潮の創刊にあたり谷崎潤一郎らと同人として活躍したが24歳という若さで急逝。

さらに数分歩くと飯島商店の店先に人の背丈ほどの「大釜」(左)が。口上書によるとNHK大河ドラマ黄金の日々で根津甚八ふんする石川五右衛門を釜ゆでにした大釜なのだそうだ。

その先の溝口(みぞのくち)緑地入口にある石碑は「国木田独歩碑」(右)。
明治30年(1897)、溝口を訪れた国木田独歩は亀屋旅館に一泊。 明治文壇に不動の地位を築いた 「忘れ得ぬ人々」 のモデルとなった旅館で独歩27回忌の昭和9年(1934)に亀屋の前に建てられた。
コメント:亀屋は無くなり、碑が現在地に移された。

溝口緑地隣の蔵造り店舗は江戸時代から続く老舗の「田中屋呉服店」(左)。明治44年(1911)に建てられた建物は釘を全く使わないほぞ組工法で組み上げてあるのだという。

その先の府中街道との交差点向こうに見える「秤の田中屋」(右)は宝暦10年(1760)創業という老舗。現在の店主は十代目だとか。当初はよろず屋だったが江戸幕府から度量衡販売の免許を交付されたことから計量を家業とし はかり田中と親しまれてきた。

田中屋の先の見世蔵は「旧灰吹屋薬局」(左)。明治時代に建てられ昭和35年(1960)まで店舗として使われていたという。今は倉庫として使われているようだがシャッターに描かれた絵がなんとも味がある。灰吹屋薬局は明和2年(1765)、東京・四谷にあった灰吹屋から暖簾分けしてもらいこの地で創業したというから250年続く薬屋さん。

その先数分、疲れた足を休めてくれるのは 「大山街道ふるさと館」(右)。小さな資料館だが歴史マップなども用意されており二子・溝口宿を知るのには最適。

ふるさと館前の石塔は「高幡不動尊道道標」(左)。府中街道と大山街道の交差点に建てられていたもので文政12年(1829)の建立。刻まれている文字は「是より北高幡不動尊道南川崎道 東青山道 西大山道」。

ふるさと館の隣に ANDY GARDEN とロゴの入ったケーキ店があるが、ここは陶芸家の人間国宝・浜田庄司が幼少期を過ごした庄司の父方の実家、和菓子の老舗大和屋跡。
 コメント:和菓子の大和屋は、昭和年代に洋菓子店となり店名をケーキの大和に、さらにANDY GARDEN に変更。

100mほど歩いた先の「大石橋」(左)は常夜燈が乗った味がある橋。下を流れる川は「二ケ領用水」(右)と呼ばれる用水路。徳川家康の命を受けた用水奉行・小泉次大夫が慶長2年(1597)から 14年の歳月を掛けて完成させた農業用水で、稲毛領と川崎領の二ケ領を潤し新田開発に大きく貢献。

大石橋の右側に問屋跡の説明板が建てられているが、ここは名主・丸屋七右衛門が宿駅を取り仕切った二子・溝口宿の問屋場があった場所。家業の煙草や麦など卸問屋業も大繁盛だったという。

橋を渡った左側は天保年間(1830〜43)創業という「稲毛屋金物店」(左)。本家稲毛屋からの分家で、当初は薪・炭・米を扱い江戸の大名屋敷に納めていたという。

さらに数分、右奥の「溝口神社」(右)は江戸時代は溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれた赤城社であったが明治維新後の神仏分離令で溝口神社と改称。

街道から奥に入った「宗隆寺」(左)は日蓮宗の寺で万灯練り供養で有名だが、陶芸家・濱田庄司の菩提寺としても知られている。栃木県益子に窯を築き創作活動を続けた濱田庄司であったが本籍は溝口に置いたままで没後の本葬は宗隆寺で行われた。

本堂裏手の墓地奥に「濱田庄司の墓」(右)がある。直前にどなたかが花を供えたのだろう。みずみずしい花が花立てに活けられているのがとても印象的であった。

山門脇に「濱田庄司の碑」(左)が据えられており
   昨日在庵 今日不在 明日他行  濱田庄司   「明日はどこかに行ってます」 いいですね〜

本堂の左手、祖師堂下に「芭蕉句碑」(右)が。  世を旅に 代かく小田の 行きもとり   芭蕉翁
灰吹屋薬局2代目二兵衛によって文政12年(1729)に建立された句碑。

街道に戻り数分歩くと榮橋交差点に差し掛かるが交差点向こう側に見える石柱は「さかえ橋親柱」(左)。
橋名の由来は諸説あるが、かつて、平瀬川と根方掘(二ケ領用水)が交差したこの場所に橋が架かっており溝口村上宿と下作延村片町の境にあったので境橋、いつの頃からか さかえ橋に。

JR南武線の踏切りを越えた先に建てられている石碑は「濱田庄司誕生地碑」(右)。ここは母の実家である大田家があった場所で濱田庄司はここで生まれている。碑文の意味は 陶匠は跡を留めず。

すぐ隣の「片町の庚申塔」(左)は文化3年(1806)に建立。道標を兼ねており、刻まれた行き先は側面に「文化3年 東江戸道 西大山道」 背面に「南加奈川道」。

街道はその先から上り坂となるが坂の途中から左に分かれる坂を「ねもじり坂」(右)という。かなりきつい上り坂だ。
ねもじり坂説明板によると東京へ野菜を運び帰りに下肥を積んでくる牛車・荷車などにとっては別名 はらへり坂 とも呼ばれた難所であった。

坂を上り切った左側の建物は「笹の原の子育て地蔵堂」(左)。西国百巡礼した夫婦に子供が授かったお礼に建てた地蔵だと伝えられ今も地元の住民によって大切に護られている。

御堂脇には、昭和19年(1944)の久本空襲で死亡した人を弔う地蔵や、秩父・西国・坂東供養塔も。

もう少し歩くと道路際の小さな「道標」(右)に「西荏田方面 東二子橋方面」と刻まれている。二子橋ということは、大正末期か昭和初期の建立。この時代の道標は珍しい。後ろの祠に祀られているのは庚申塔

ほどなく国道246号と交差する梶ヶ谷交差点だが、ここには横断歩道が無い。疲れた足に歩道橋の階段は辛いんだな〜。しばらく歩いたら街道を外れて寄り道を。

向かった先は「宮崎大塚古墳」(左)。高さ4mほどの方墳だが説明板が無いため詳しいことは分からない。古墳の上に馬絹大塚供養塔と刻まれた立派な石碑があるが これも詳細は不明。

街道に戻ると その先は大規模宅地開発の影響で旧道が消滅。それでも庚申坂や八幡坂など旧地名が残っているのが救い。

田園都市線宮前平駅前まで来ると長〜い上り階段の上に「八幡神社と小台稲荷神社」(右)が鎮座。 優雅な唐破風の上に千鳥破風という八幡神社の社殿はなかなか美しい。

宮前平駅の先で尻手・黒川道路を横断すると今度は小台坂という長〜い上り坂が待っている。

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