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矢倉沢往還  道中記

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I善波峠越え                  街道地図
      ぜんばとうげ
善波峠は現在の伊勢原市と秦野市の境に位置する標高160mほどの小さな峠。この峠を越えると
曽屋宿である。 ここには善波隧道(旧246号)と新善波隧道(現246号)の2本の隧道が掘られているが、
江戸時代の峠越えの道も一部残っている。また善波峠までの途中には山中の土道(つちみち)も結構多く
残されており あの看板が無ければ楽しめる旧街道であるのだが。

 平成25年10月30日

糟屋宿を通り、土道の大山旧街道を通り、せきど橋を渡って右へ曲る道が大山街道であったが矢倉沢往還はせきど橋を渡ったら真っ直ぐ進み「市米橋交差点」(左)を越えて行く。

数分先の耕雲寺山門を入ると石仏が並んでいるが其の中の1基は享保13年(1728)造立の「庚申塔道標」(右)。
さきほど渡ったせきど橋近くの咳止地蔵の近くにあったもので右側面に刻まれている文字は「左おふや満(おおやま)みち 右ひなたみち」と。

街道に戻り10分ほど歩いて国道246号に合流したら寄り道を。向った先は内宮・外宮が並ぶ「伊勢原大神宮」(左)。
由緒によると創建は江戸時代初期の元和年間(1615〜24)。伊勢の人、山田曾右衛門なる人物が伊勢神宮を勧請したもので伊勢原という地名も お伊勢さんに由来するという。

伊勢原大神宮を出て10分ほど歩くと国道際に鎮座しているのは「坂戸八雲神社」(右)。拝殿はごく質素だが、本殿はなかなか立派。境内右手の梵鐘は神仏混交時代の名残りか。

国道を歩いていると昔懐かしい「円筒形のポスト(左)が。その脇の石塔は「庚申塔道標と道祖神」(左)。 大山道 までしか読み取れないのが残念。旧矢倉沢往還はその先で僅かだが旧道に入り一旦国道に合流した後右へと曲って行く。

ほどなく「鈴川橋」(右)を渡るのだが親柱に大正15年(1926)12月成*と刻まれている。なんと90年近く前に造られた橋。橋を渡ったところの双体道祖神はどう見ても人間顔。道祖神ではなく お人形さんだな。

その先に、なんと、造り酒屋がありました。 大吟醸菊勇の醸造元「吉川(きっかわ)醸造」(左)は大正元年(1912)の創業。今も麹蓋を用いた手造りの酒造りにこだわっている。

すぐ先の丁字路に「三之宮比々多神社参道」(右)と刻まれた道標があったがネットで調べたところ神社の歴史が凄い。
HPの由緒によると、境内から発掘された遺跡から推測すると1万年以上遡ることが出来るという。 この地に社を建立し豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)を祀ったのが初代神武天皇6年(紀元前655年)なのだそうだ。

国道246に合流した左手彼方に神社が。 近づいてみると広い歩道の半分ほどを占領しているのは「稲荷神社」(左)。場所が場所だけに気になるが由緒は不明。

この先しばらくは国道246を歩くのだが数分歩いた先に「笠付き庚申塔」(右)が建てられている。 道標も兼ねているようだが かなり補修されているため文字が読みずらくなっているがのが残念。

庚申塔から10分ほど歩いたら ちょっと遠いが寄り道を。

向った先は奈良時代に整備された「古東海道箕輪駅跡」(左)。律令国家を支える重要な官道の宿駅で駅馬が用意され宿泊の施設も整っていたことから大変な賑わいだったという。

国道246に戻り10分ほど歩いたら左に曲がり再び旧道へ。数分先の三叉路に「愛鶏供養塔と地蔵が2体」(右)。銘を見ると昭和17年(1942)4月建立となっているので比較的新しい。供養塔まで建ててもらうとは、幸せな鶏だ。

供養塔の右側を進むと舗装こそされているが人家が疎らな道に変わり数十メートル先で再び「三叉路」(左)。矢倉沢往還は真っ直ぐ進むのだが右へ下ってちょっと寄り道を。

数分歩くと「太郎のちから石」(右)なるものが鎮座。太郎とは鎌倉時代にこの辺り一帯に勢力を持っていた武将・善波太郎重氏。石の上部のふた筋の窪みは善波太郎が下駄で力踏みしたところ付いた跡だという。

三叉路に戻り山中の道へ。ほどなく神代杉なる説明板があったので斜面を下ると崖下に「横穴が2本」(左)。傍らの説明板によると昭和初期(1930前後)、地元の農夫飯塚亀蔵なる人物が水田へ水を引くためにロウソクと鏡を頼りに手掘りした農業用導水トンネルなのだとか。

トンネルの右手をさらに下ると「神代杉(うもれ木)(右)があるというのだ。古代、この辺一体の大森林が洪水で埋まり炭化。長い年月を経て再び流れの中に、ということだが探しても見つからんのです。

この先も雑木林の木漏れ日の中を歩いたり、みかん畑の横を歩いたりと気持ち良いのだが、あれが気になる。

その昔、旅人がこの石の辺りに誰助ける
ことなく倒れていたそうだ。 以来、夜中に
なると助けを求める声が聞こえたという。
この看板が無ければ気持ち良く歩ける
のだが。 時々この看板が出てくるので、
熊よけ鈴を鳴らしての歩きとなってしまった。
矢倉沢往還旧道はハイキングコース
となっているので、標識がしっかりと設置
されている。
右へ下ると集落へ入るが、旧道は左の
草道へと入っていく。

さきほどまでの道は簡易舗装がされて
いたが、この辺りは全くの土道。
ほどなく三叉路に差し掛かるので、
ここは右へ下っていく。
やがて国道に合流するが、合流点に
ハイキング者用の標識がある。
国道に入ると、すぐ先に新善波トンネル
が見える。矢倉沢往還に入るには手前を
左に曲がる。

新善波隋道の手前を曲りホテル街を通って峠へ向うのだが上り口がはっきりしないので「善波隋道」(左)の先から峠へ向うことに。トンネルを抜けて数分歩いたら十字路を右に曲り 急な上り坂をさらに4〜5分歩くと「善波峠切通し」(右)に到着。善波隋道は昭和初期に完成したのだが それまではこの峠道が唯一の交通手段であった。

この切通しがいつ頃造られたのか不明だが古道という雰囲気タップリの道である。

切通しには「5体の石仏」(左)が鎮座しており訪れる人を優しく迎えてくれる。ちょっと痛みが激しいのが残念。

切通しの先を右に回り込んで坂を上ると「御夜燈」(右)があるのだが これも痛みが激しい。この夜燈は文政10年(1827)に建てられ峠越えする旅人の安全を守ってきたが、江戸時代以降も茶屋の主人八五郎さんの手により明治末期まで点灯され続けていた。

峠から秦野側に下る途中の「眺望」(左)が素晴らしい。秦野市街が一望、其の先に箱根連山が連なり天気が良ければ富士山も。

十字路まで戻り坂を下っていくと「おや、お馬さん」(右)ではないか。お馬さんも退屈すると外の景色を眺めるんだね〜
厩舎の中でもお馬さんが通路に顔を出していました。

この先は住宅団地の外周を通るちょっと単調な歩きが30分ほど続き曽屋宿へと入っていく。


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