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東金御成街道道中記

①前原西追分から六方町交差点まで     ②六方町交差点から沖十文字交差点まで    ③沖十文字交差点から東金御殿まで

①船橋・前原西追分追から六方町交差点まで 街道地図
 
東金御成街道のスタート点は船橋の西向き地蔵前であるが今回の旅では成田街道との
追分である前原西追分(成田山道標の前)からとした。この先の道筋は街道が造られた当時と
変わらない直線道路が続くが以外と坂が多い。下り坂の先に上り坂があり 上りきると再び
下り坂の繰り返し。
残念ながら長沼原町から若松町の間は工場や自衛隊基地の敷地となり消滅。六方町を迂回
することになる。

平 成28年10月21日

国道296号の成田街道入口交差点際に「成田山道標」(左)が据えられているが今回の旅のスタートはここから。
ここは成田街道と東金御成街道の追分。この道標は明治12年(1879)に造立されたもので 「成田山道」 などと刻まれているが残念ながら東金御成街道の文字は全く無い。

習志野市との境まで来たら右側の細い坂道を上ると墓地の中に小さな丘が。ここは「藤崎念仏供養塔がある丘」(右)。「融通念仏供養塔」と刻まれた文化8年(1811)建立の石塔が建てられている。

街道に戻り5分ほど歩いた藤崎交番前交差点まで来ると 「東金(御成)街道」 と題された説明板が掲げられている。その最後の方に「藤崎古道」という文字があるので寄り道を。

交差点を右に曲がり100m、藤崎古道の表示に従って左に曲がると細い階段道があるが ここは東金御成街道以前の「藤崎古道」(左)。竹藪の中のちょっと薄暗い道だが古の雰囲気残る風情ある道だ。

ここまできたのでもう少し寄り道を。古道を上った先の住宅地を抜けると広々とした畑地が広がっている。
その向こうに こんもりした森が見えるがここは「藤崎堀込貝塚」(右)。縄文時代中後期の貝塚で1kmほど先は東京湾。かつてはこの近くまで海が入り込んでいたのだろう。

貝塚の横をさらに進み森林公園に入ると「旧大沢家住宅」(左)が移築されている。350年ほど前の寛文4年(1664)に名主だった大沢家の住宅として千葉県長生郡長生村に建築されたもの。

先ほどの広々した畑地に戻ったら「子安神社」(右)まで足を伸ばすことに。
当社は高倉天皇の御代、治承4年(1180)の創建と伝わる古社。
慶長19年(1614)、東金方面へ鷹狩りに向かった徳川家康が子安神社で休憩したという。

神社脇からバス通りへ下り右へ曲がると道路際に「樹齢400年の大銀杏」(左)がそびえている。 400年前と言えば江戸時代初期。 東金へ鷹狩りに向かった家康一行を見ていたかもしれない。
元々は正福院の境内にあったが境内中央に市道を通してしまったため道路際に。荒っぽい道路計画だな~

隣の観音堂境内に「筆子中の碑」(右)なるものがある。寺子屋を開いていた田久保伊助が安政5年(1858)に没すると その筆子(弟子)達が師匠を偲んで建立。

街道に戻ったら彼方まで続く直線道路を20分。店舗兼の古民家は習志野騎兵連隊の御用達にもなっていたという明治38年(1905)創業の「張替酒店」(左)。建物は昭和3年(1928)の建築。

5~6分歩いた先の街道際に見えたのは真新しい鳥居と玉垣。
ここは延宝年間(1673~80)に創建された「誉田神社」(右)。大久保新田が開かれた際、河内国誉田村の誉田八幡宮の分霊を守護神として奉斎したのが始まりという。

誉田神社のすぐ先、赤い小さな祠の中は地元の人達が足の神様「道六神(どうろくじん)(左)と呼んでいる道祖神。
小さな注連縄が掛けられ大事にされているようだ。

その先の交差点を右に曲がると「庚申塔」(右)が3基。右の2基は元禄14年(1701)と延宝8年(1680)に造立されたもので猿の手足が長いのが特徴。左の文字庚申塔は明治期に入ってのもの。

20分ほど歩き京成線踏切手前の階段を上ると鎮座しているのは「大原神社」(左)。神社縁起によると、「天治元年(1124)に創立され、御成街道完成に伴い文禄元年(1592)に現在地へ遷座」とある。
天照大神の親である「イザナギ・イザナミ」の男女二柱が祀られていることから縁結びの神として崇められていた。

街道に戻ると大原神社の敷地脇に「庚申塔と六十六部供養塔」(右)が並んでいる。庚申塔は笠付きのちょっと豪華なもので宝暦2年(1752)と正徳元年(1711)の造立。

踏切りを渡った辺りが「実籾一里塚跡」(左)なのだが表示が無いため詳しい位置などは分からない。

その先を右に下って行くと実籾本郷公園に入るが その一角に「旧鴇田(ときた)家住宅」(右)が移設されている。
享保12年(1727)から13年にかけて建てられた実籾村の名主・鴇田家の住居で平成3年(1991)まで使用されていた。東北地方に多い曲屋の家で関東地方では極めて珍しい。

街道に戻り4~5分、左奥の「無量寺」
習志野七福神の一つ、寿老人の寺。
無量寺入口のすぐ先に立派な「長屋門」がある。 実籾交差点の先にも「長屋門」があるが、
外塀が施されているので見落としそう。
その先の長作交差点を左折すると、塀の切れ目に
あったのは
「庚申塔・二十三夜塔・二十六夜塔」

長作交差点からかれこれ20分、街道左の階段を上がると三島神社だが「本殿」(左)の彫刻が素晴らしい。製作年代などを知りたいが残念ながら由緒等が無いため詳しいことが分からない。

天戸台の交差点を過ぎて4~5分、街道際に「椎の古木」(右)がそびえている。樹齢は不明だが御成街道の工事を行っているときにはすでにあったのだろう。
その根本に天明7年(1787)に建立された六十六部供養塔が建てられている。

その先の十字路際に明治14年(1881)建立の「花島観音道標」(左)がある。観音信仰が盛んだった頃のもので刻まれている文字は正面に「花嶌山正観世音」、側面に「是北観音堂八町」「西ふなばし道」。

この十字路を北に200mほど入った三叉路に「馬頭観音と庚申塔」(右)が。庚申塔は道標を兼ねているようだが文字が読みにくい。観音道道標の手前には先ほど見たのと同じ六十六部供養塔が据えられているが こちらは宝暦13年(1793)の建立。


花水川に架かる天戸大橋手前。小さな祠の中に
見えたのは
如意輪観音
天戸大橋を渡った先の祠の中には
猿田彦大神大神庚申塔
広尾十字路を越えた先の倉庫前にある真新しい
祠の中に
子安観音如意輪観音など四体の石仏が。

子安・如意輪観音祠前の緩い下り坂を下り再び上り坂を上る途中の犢橋(こてはし)小学校入口の坂道を上ると旧道が残っている。

この「油作の坂旧道」(左)は いわくつきの道 。
船橋側と東金側から進めてきた道普請。ここで直線に繋がるはずがそうはいかなかった。だが、お互いに譲らなかったためここだけ曲がってしまった。街道地図を参照してください。

旧道の途中、左側墓地入口に女人講中が造立した天明元年(1781)造立の「地蔵立像」(右)がひっそりと立っている。

旧道はすぐに県道に合流してしまうが、その合流点に建てられている「地蔵堂」(左)の堂内に安置されているのは元禄13年(1700)造立の石地蔵とお不動様、閻魔大王

傍らの大きな石板は「馬頭観世音道標」(右)。行き先はかなり多方向。 「右 長沼 四街道 正面 検見 千葉 方面後 宇那谷 上志津 左 大久保 船橋 方面」。 堂前には如意輪観音の石仏もある

地蔵堂の辺りから犢橋(こてはし)宿で船橋宿の次の宿場となる。寛永期(1624~44)に継立場となったが旅籠2軒・茶屋1軒程度の小さな宿場であった。しかし飯盛り女もいる賑わった宿場だった。
現在の町並みに往時の面影を感じるのは「家号 花島佐平治」(左)と表札が出ているこのお宅ぐらいだ。

ほどなく東関東自動車道の上を跨道橋で越えていくが この辺りに二つ目の「向山一里塚」(右)があった。今は痕跡が全く無く橋のたもとに「一里塚」と表示があるのみ。

5~6分歩くと交差点際の塀の下に「庚申塔と道祖神」(左)が祀られている。

左の庚申塔は天和3年(1683)造立。右の新しい石塔は昭和58年(1983)の造立。 三猿が彫られその上に道祖神と刻まれているのが珍しい。この交差点を右に入って寄り道を。その入口にある小さな石祠は天保10年(1839)造立の「道祖神」(右)。

寄り道で向かった先は「御瀧神社」(左)。小さな小さなな神社だが かつてこの近くに小さな滝があったそうだ。徳川家康が鷹狩りに行く途中、ここで休憩しその滝の水で喉を潤したという。

もう少し先、千葉北高の隣に「奥之院 馬頭観世音」の扁額が掲げられた鳥居があるがその奥は「駒形観音奥之院」(右)。元和6年(1620)、三代将軍家光が鷹狩りの帰途、愛馬が傷つき亡くなったのでその屍を葬った場所と言い伝えられている。境内には奉納された多数の石絵馬が。

街道に戻って4~5分歩き国道16号長沼交差点を横断すると民家の塀の下に享保12年(1727)長沼の地蔵尊がひっそりと立っている。

その先左奥に鎮座しているのは「駒形大仏」(左)。近隣60ケ村の念仏講中の浄財で鋳造されたもので像高2.4mという大きなもの。開眼入仏が行われたのは元禄16年(1703)

奥の 「駒形観音堂」(右) は大仏の開眼入仏に際し大巌寺16世然誉沢春大和尚によって馬頭観音を本尊として開基したという。

「庚申塔」(左)や「子安観音」(左)を眺めたりしながら住友建機の前まで来ると直線だった道路が左に曲がっていく。ここから先2.5kmほどは残念ながら工場敷地や自衛隊基地の為に消滅。

現・東金街道を進むと六方町という交差点があるが、ここは江戸時代、六方から入れる入会地であったことから六方町と呼ばれるようになったとか。

今回の旅は六方町まで。ここからはバスでJR総武線四街道駅へ。


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