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東金御成街道道中記

①前原西追分から六方町交差点まで     ②六方町交差点から沖十文字交差点まで    ③沖十文字交差点から東金御殿まで

②六方町交差点から沖十文字 街道地図

東金御成街道の旅、2回目は前回終了した六方町交差点からとしたいが、ここは江戸時代の御成街道ではない。
ならば旧道が復活する鎌池(かまち)十字路へ直行だ。コメント:街道地図には六方町交差点から鎌池交差点までのルートを示してあります。

鎌池十字路から先は定規で線を引いたように真っ直ぐ。しかし相変わらずアップダウンが多い。特に鼻付き坂と
呼ばれる辺りは顕著。途中に2か所目の御茶屋御殿跡があるが ここは他の2か所と違い建物こそ無いが当時の
様子がしっかりと残されている。
千葉市から八街市に入ると残念ながら旧道が林の中へ入って消滅。新しくできた道を40分ほど歩くと再び旧東金
御成街道が復活するが この辺りは交通の便が大変悪い。今回の旅は沖十文字交差点までとし1時間に1本の
バスで千城台駅へ。

平成28年11月4日

今回はJR総武線四街道駅から出発。
北口の駅前広場に「正岡子規の句碑」(左)があるので見ていくことに。
    棒杭や 四街道の 冬木立   子規

四街道十字路を左に曲がって20分ほど歩くと道路際の駐車場周囲に「出羽三山碑」(右)や秩父三十四番供養塔などが集められている。千葉には出羽三山信仰が多いようだ。

さらに4~5分歩くと消滅した旧街道の復活地点 鎌池十字路。そのちょっと手前のブロック塀に挟まれた石塔は明治45年(1912)建立の「馬頭観世音」(左)。

旧街道は鎌池十字路を左に曲がっていくのだが、右に曲がって自衛隊基地の手前で振り向くと見えたのは「東の遥か彼方まで真っ直ぐ伸びている御成街道」(右)。

JR総武線踏切りを渡ると鉄塔の立つ小山が見えるが ここは「焼塚」(左)。街道の造成に当たって狼煙を上げたり白旗を掲げたりした場所。後には一里塚として機能したそうな。

焼塚から20分ほど歩いただろうか。街道沿いに「菊園」(右)という和菓子店があったので入ってみると「御成街道」 と命名された和菓子があるではないか。さっそく購入。

国道51号交差点の手前を右に入って5~6分の所にある「八幡神社」(左)は川野辺新田の氏神様で文化5年(1808)の創建。小さな神社だが 村の鎮守様 そんな雰囲気が感じられる。ここにも多数の出羽三山碑が。

国道を越えた先の左奥にある「鹿嶋神社」(右)は寛永2年(1625)の創建。明治時代に近隣五社を合祀したため祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)など七柱という賑やかな神社。ここにも出羽三山碑が。

街道に戻り植草学園大学の前を通り過ぎると僅かな区間だが千葉市から四街道市。
この辺りは下総佐倉藩主の堀田正睦の命で吉岡本郷在住の8世帯が天保14年(1848)に移住し開拓した吉岡新開と呼ばれた地。

街道際の小さな祠の中は文久3年(1863)建立の「馬頭観音道標」(左)。側面に刻まれている文字は「右 小名木」「左 こてはし」。

もう少し歩いた吉岡新開の外れに鎮座する春日神社は開拓者の心の拠り所として建立されたという。「銅製の鳥居」(右)が珍しい。そういえば東海道・桑名宿の春日神社鳥居も銅製だったかな。

再び千葉市に入ると「鼻付き坂」(左)に差し掛かる。道は狭い。歩道は無い。その上アップダウンの繰り返しが多く、目の前の坂上に対向車が突然現れビックリさせられることが何度も。

鼻付き坂が終わった所にあったのは「提灯塚」(右)。下総台地の高所にある塚で、昼は白旗を、夜は提灯を掲げ、これを目標に直線道路を造ったという。後に一里塚となっている。

提灯塚から数分、拡幅された道路が大きく右へ曲がっていくが左側の妙に曲がった先の直線道路が旧御成街道

旧御成街道に入ると古街道の風情残る静かな佇まいの旧金親宿。 この集落では3棟の長屋門が見られる。最初は「田野家の長屋門」(左)。漆喰が剥がれて土壁となっているが なかなか味がある。

その先に「御成街道」と表示された案内板があるが この辺りが「高札場跡付近」(右)。当時の高札が現存しており この先の石井家に保存されている。

100mほど先に石井家の長屋門があり、隣に3軒目の長屋門が並んでいる。石井家長屋門の前が大宮神社の裏参道となっているが その入口に設置されているのは御成街道説明板。

裏参道を入ると1~2分で「大宮神社」(左)に到着。拝殿は質素だが比較的新しい本殿は脇障子にまで力強い彫刻が施され見応えある。創建年代は不明。

街道に戻り金親町信号まで来たら寄り道を。向かった先は鎌倉時代後半の正応2年(1289)創建という金光院。御茶屋御殿に宿泊した徳川家康がこっそり抜け出して金光院に泊まったのだとか。
「金光院山門」(右)は御茶屋御殿の裏門を寛文年間(1661~73)に移築したものと伝えられている。

街道に戻り5分ほど歩くと車道が大きく左へ曲がっていくが、右側に旧東金御成街道と表示されているのでこちらの旧道へ。旧道はすぐに拡幅された広い道に合流。
さらに5分ほど歩くと道路際に 御茶屋御殿跡 の標柱と説明板が設置されている。

200mほど奥へ入ると、徳川家康が鷹狩りに向かう際の休憩所として造られたという「御茶屋御殿の跡」(左)。寛文年間に取り払われてしまったが一辺110mの広大な敷地は当時のままの更地。

周囲には「空堀と土塁」(右)も当時のまま残されているという貴重な遺跡。井戸跡が残っているということだが訪れた時は一面に雑草が生い繁り探すことができなかった。

街道に戻ると その先は拡幅された真っ直ぐな道が遥か彼方まで続いている。十数分歩いただろうか、「右へ下る細い道が旧御成街道」(左)の道筋。S字状に坂道を下って行く。その先の県道66号を越えると再びS字状の下り坂。一説には籠に乗った家康のために少しでも坂の勾配を緩くするためだという。

富田入口交差点まで来たら ここでも寄り道を。交差点を左に曲がった1~2分先に「大六天神社」(右)が鎮座。祭神は面足命・惶根命(おもだるのみこと・かしこねのみこと)の夫婦神。

富田入口交差点まで戻ったらその先の中田橋を渡り緩い坂道を上っていくと継立場であった「旧中田村」(左)(現・中田町)だが旅籠などはなく隣の金親村と分担して継立業務を行う小さな村だった。

街道左手奥の「真光寺」(右)は寛文12年(1672)に北条氏長が領地の一部を寄付して創立された寺。入口に高札場があったそうだ。

中田村から先は鹿島川に向かって下って行くのだが房総台地の起伏の多さは旅人泣かせ。

鹿島川に架かる富田橋を渡ると再び上り坂で富田の集落へ入っていく。

上り坂の途中、崖下に小さな石柱が。近寄って見ると「道標」(左)のようだが文字が読みずらい。「西 中田 古泉 道」「東 沖小間子砂 東金 道」と刻まれているようだ。

坂を上りきると左手に長屋門があり、その先右手に「椎の古木」(右)が見える。ばっさりと枝打ちされているため大きさが感じられないが街道の造成時には目印の白旗や提灯を掲げた大木だとか。
街道開通後は一里塚の役目を果たしていた。前の提灯塚からは約4.7km、次の上砂一里塚までも4.7kmであった。

富田の集落を過ぎると再び下り坂となりその先は上り坂。
袖ヶ浦CC新袖コースの脇を通って坂を下って行くと真っ直ぐだった街道が思いきり左へ曲がっていく。が、これは新道で旧御成街道は真っ直ぐ林の中へ入り台地へと上っていったが今は「消滅状態」(左)。

あまりに急坂であったため家康は籠を降り馬に乗り換えて上ったという。上りきった台地から眺めた下総の眺望に家康は感嘆。そこからこの坂道を「風景谷(ふがさく)の険」(右)と呼ばれるようになった。

車道に沿って左へ曲がると千葉市から八街市へ入る。そこにあった御成街道跡説明板に 「山林中に僅かに昔の面影を止める地区があり・・・」とあるが、藪が深く入るのはちょっと無理。
そのまま車道を進み沖十文字交差点までくると その先100mほどの所にコミュニティバスの折り返し所があるので今日はここまで。

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