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筑波街道  道中記

土浦一高前から小田小田から筑波山神社

土浦一高前から小田まで 街道地図

土浦一校前で水戸道中と別れた筑波街道は八坂通りを経て国道125号に入り、途中、何回か
旧道を通りながら藤沢、大形を通って小田に至る。大型トラックが唸りを上げる国道から一歩旧道に
入ると景色が変わり静かなたたずまいの町並みを楽しむことができる。

 平成27年6月26日

土浦一校前でバスを降りると「旧土浦中学校正門」(左)が目の前に見える。ここは 現土浦一校 の裏門に当たり通常は閉じられているが月1回だけ開く時がある。

それは見学会の日。門を入った先で見られるのは明治37年(1904)に建てられた国指定重要文化財の「旧土浦中学校本館」(右)。100年以上の歴史を持つ校舎だがモダンな外観は今見ても素晴らしい。
 コメント:毎月第二土曜日に見学会を行っています。

いよいよ水戸街道から八坂通りに入って筑波街道の旅に出発。

数分歩くと八坂神社の鳥居があるのでさっそく寄り道を。
江戸時代には土浦城の鎮守であったという八坂神社の「拝殿」(左)は享保13年(1728)の建築。本殿は元禄13年(1700)の建築だが脇障子にまで彫刻が施された素晴らしいもの。

次は永承年間(1046〜52)の創建と伝わる「皇産霊(みむすび)神社」(右)に寄道を。小田城主・小田治久が北条高時を攻める際、戦勝祈願をしたところ勝利できたことから社殿を再興したという伝えがある。

街道に戻り国道6号跨道橋を越えたら右側の旧道へ。

十数分歩いた右側、関根商店の横に旧都和村の「道路元標」(左)があるのだが ちょっと邪慳な扱いだねー。

その先の交差点を右に曲がり「亀城稲荷神社」(右)へ。土屋家の氏神として亀城(土浦城)に祀られていたが家臣を帰農させ常名開拓を行う際、鎮護の神として奉斎したのだという。

街道に戻るとその先は国道をテクテクと40〜50分。藤沢小学校の前から再び旧道へ。

丁字路際に「背の高い道標」(左)が立っている。「皇太子殿下誕生記念」と刻まれているが昭和9年(1934)の文字が読めるようなので平成天皇の生誕記念碑のようだ。
下の部分が道標になっており刻まれている行き先が「右 至土浦 約二里  左 至筑波 約三里」。

道標の手前を右に曲がった先の「鷲神社」(右)は鎌倉〜室町頃の創建とされる古社。
鷲神社に古くから伝わるからかさ万灯は国選択無形民俗文化財。

国道の坂を上っていると左土手の上に「藤沢防空監視哨之跡」(左)と刻まれたレートが嵌め込まれた石碑がある。このような施設跡が全国各地にあるが第二次大戦の末期的症状の現れですかね。

先ほど藤沢下宿というバス停があったが街道の両側に立派な屋敷が並んでいる。この辺りの集落がかつての「藤沢下宿辺り」(右)だったのだろう。

ほどなく到着した場所は藤沢十字路。ここにも「背の高い道標」(右)が。かなり長い文で「都和村並木真鍋ヲ経テ土浦ニ至 約二里 小田北条ヲ経テ筑波ニ至 約三里」と。この十字路を左に曲がって3ヶ所に寄り道を。

参道に多数の五輪塔が並んでいる「神宮寺」(右)は室町時代末期に総持院と合併して藤沢城内のこの地に移建したと伝えられる。 多数の五輪塔が何故ここに。ちょっと気になるのだが。

神宮寺先の藤沢城跡を探したのだが見つからず農作業をしていた方に聞いてやっと分かったのが「藤沢城主郭跡」(左)の畑。表示等は一切無い。小田氏の居城・小田城が豊臣秀吉軍に攻められ落ちると その支城であった藤沢城も廃城となった。

その先の三叉路を右へ入った奥は「藤原藤房卿遺跡」(右)。後醍醐天皇の側近であった藤房は北条高時によってこの地に配流。藤房が頭髪を切って埋めた地であると伝えられることから髪塔塚とも。

藤沢十字路まで戻ったら5〜6分歩き八坂神社横から旧道へ入ると十字路の際に「小さな祠が」(左)がある 祠の中に2基の二十三夜塔が安置されているが手前の二十三夜塔は新治地区では最も古い江戸時代初期の慶長12年(1607)建立。上部に刻まれているのは日待・月待信仰を表す日輪と月輪。

十字路向うの「道標」(右)は指差しで行先を示してるのが面白い。
刻まれている行き先は  「大島 大形 小田 北条 筑波  藤沢 並木 真鍋 土浦 方面」 。

道標に従って左に曲がると10分弱で国道125号に合流するのだが その前にまたまた寄り道を。向かった先は法雲寺。

途中の農村集落センター脇に祠や石塔の集まりがあったので近づいてみたところ「市指定考古資料」と刻まれた石標が。その下に「湯殿山時念仏供養板碑」(左)とある。寛永2年(1625)に造られたもので日輪・月輪が刻まれているが文字は読み取れない。

その先の法雲寺は足利尊氏が小田城主の小田治久に命じて建立した勅願所が起源。「山門」(右)は元亨3年(1323)の建立とされ土浦市で最古の建造物。当寺には多数の国指定重文などがあり文化財の宝庫。

次に向かった先は「梶ノ宮神社」(左)。室町時代、法雲寺を開山した復庵和尚の創建と伝えられている。
鳥居の右側に並んでいる石塔は60年毎の庚申年に造立された「庚申塔4基」(右)。元文5年(1740)、寛政12年(1800)、蔓延元年(1860)と見事に60年毎。1基は延宝8年(1680)と推測。

庚申塔の並びにあるのは ちょっと珍しい文化3年(1806)の二十六夜供養塔。神社の裏には市指定考古資料の寛永2年(1625)に造られた湯殿山時念仏供養板碑がある。

下大島バス停の近くに、多数の
石仏が忘れ去られたように国道
際に置かれている。
その先を左に入ると、お馴染みの
二十三夜供養塔が。
対面の茅葺建物は鹿島神社
拝殿が荒れた感じのするのが
気になる。
街道(国道125号)際にひっそりと
立っていたのは馬頭観音

馬頭観音の先から旧道に入ると大形の静かな町並みとなるが、その中ほどにかなり大きな「長屋門が2棟」(左)。消えつつある長屋門が2棟も並んでいる景色は後世に長く残したいものだ。

わずか4〜5分で国道に合流、その先で再び右手の旧道へ。
今度は国道と並行した「田んぼの中の道」(右)。ここにも馬頭観音が2基。

10分ほど歩いて国道に合流したら今度は左側の旧道に入って行く。

十字路の際に「庚申塔と六字名号塔」(左)があるのだが、後ろに松があり、その後ろは田園風景が広がるという、思わず写真に撮りたくなるような景色だ。名号塔は道標を兼ねているようだが読み取れない。

この辺りから小田の集落に入るのだが しっとりした良い町並みだ。
立派な門構えの屋敷が見えてきたが ここは「高瀬醤油」(右)。今でも醤油醸造を行っている。

その先の解脱寺は室町時代の応永5年(1398)に弁誉上人によって開基さたという古刹。参道の正面奥に「二十三夜堂」(左)が見えるがこの建物は寛政3年(1791)の建築で勢至菩薩が祀られている。

「本堂」(右)は享保年間(1716〜35)に再建されたもの。
参道の途中にある十九夜堂に如意輪観音が3体収められている。優しそうな御姿がなんともいいですね〜

街道へ戻って数分、十字路際に「庚申塔道標」(左)が建てられている。が、刻まれた文字が 「土う羅道 徒久者道」。 つちうら道は分かるが、徒久者道は何と読む?   「土う羅道(つちうらみち) 徒久者道(つくばみち)」です。

十字路際に掲示されている地図は「小田城案内図等」(右)。小田城跡まで行きたいが雨脚が強いので今日はここまで。

帰りは「つくバス」に乗り、つくばエクスレスのつくば駅へ。

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