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赤山街道 大宮道 道中記

①赤山陣屋跡から大間木まで   ②大間木から永田陣屋跡まで

②大間木から永田陣屋跡まで      街道地図

令和2年10月28日 

赤山街道大宮道、2回目の歩きは大間木から。

国道463号を横断し芝原の細い旧道に入ると「報徳院」(左)と記された小さな御堂がある。傍らの看板に 請願加護 ・招福祈願・家内安全・無病息災・交通安全・学業成就・商売繁盛。中々のパワースポットだ。

5~6分歩いた先の五差路際、さるまん塚の上に寛保2年(1742)「三室庚申塔」(右)が立っているが、これがスゴイ。笠付きの高さ250センチという大きなもので、二童子を従えて邪鬼を踏みしめ、左手にショケラをぶら下げた青面金剛。その下には四夜叉、台座には二鶏と三猿。側面は道標で「東ハ赤山道」「西ハ大宮道」。

この先しばらくは住宅地の中の道、第二産業道路を横断し、その先も住宅地の中を歩く。

ほどなく変則4差路に差し掛かるが、その二又の中にある小さな石塔は文政4年(1821)「馬頭観音道標」(左)。 風化が激しく読みずらいが「右 江戸 はとがや 左 大宮 与の」などと読める。

4差路向うの小山は「大東の富士塚」(右)。この地は多くの旅人や村人が行き交った赤山道と村道の辻。塚の築造年代は分からないが頂上に建てられた庚申塔の銘は文化14年(1817)

富士塚の先も住宅地の中の道を歩き、さいたま幸手線(県道65号)を横断。

十字路を右に入った奥にあったのは「上木崎の庚申塔」(左)。元禄15年(1702)造立の青面金剛像で、左手にショケラをぶら下げ、上部に日月、足元には邪鬼と鶏らしき彫り、その下に三猿という正統派。

ほどなく旧中山道を横断するが、その先はJR京浜東北線で消滅。ここは与野駅下の地下道で横断。

与野東中学校脇を入った所に「石橋供養塔」(右)が建てられている。 宝暦6年(1756)に高沼導水路に架けた石橋の完成を記念して建てられたもの。碑の上部に石仏が浮彫されているのがユニーク。

東北新幹線の高架下を通り、台の坂を下って赤山橋を渡るとここにも「石橋供養塔」(左)が。建てられたのは享保11年(1726)、高さ2m以上という大きなもので架橋に協力した近隣の村名が刻まれているが、その数100以上。

5分ほど歩いた先の本町通り交差点手前に「地蔵尊2体と石塔が2基」(右)。地蔵尊の詳しいことは分からない。 
西向きの背の高い石塔は天保13年(1842)の甲子供養塔道標で正面下部に「引又二里」「 川越四里」、右側面に「南 浦和一里」、左側面には「大宮十五丁、原市三里、一之宮鳥居前十丁、岩槻三里」と行き先が事細かに刻まれている。 
街道側向きの小さな道標は寛政8年(1796)のもので刻まれた文字は「右秋葉* 左石尊大*」。

本町通り交差点を右に曲がり5~6分歩くと見えた真っ赤な鳥居は「出世稲荷大明神」(左)。由緒の類が無いが、ネットからの情報によると天明五年(1785)に穀物・農業の神を祀ったのが始まりという。 昭和13年(1938)に現在地に移ったが、それまでの畦道からメインストリートの本町通りに出てきたので出世稲荷と呼ばれるようになったのだとか。

すぐ先は「上町氷川神社」(右)。 創建年不詳だが、由緒によると現本殿は宝永五年(1708)に与野町の氏子によって再建されたもの。社地が鳥居から本殿に向かって扇状であることから扇の宮と呼ばれていた。

 氷川神社を出て数分、道路際の祠の中に立つ「庚申供養塔」(左)は正徳6年(1716)のもの。  県道214号を横断し数分歩いた丁字路際の祠の中に笠付きの「庚申塔道標」(左)。側面に「東 大ミや道 南 与乃道」と刻まれている。  丁字路を左に曲がり数分歩いた先のブロック塀際の石塔は「敷石供養塔道標」(左)。正面は劣化が激しいが右側面に「西 川ごへ(川越)  南 引又 大山 道」 左側面に「南 よの江戸 東 大ミや *** 道」と読める。

敷石供養塔の先で県道に合流。新大宮バイパスを越えた先に「茶堂」(左)と呼ばれる荒れた御堂があるが正式名称は観音堂。茶堂と呼ばれる由来だが、前の道を通った徳川家康が疲れて当地で小休止、このとき村人が茶をふるまい、喜んだ家康がここを茶堂と名付けた という言い伝えがある。

茶堂の先から旧道に入るが、この道は旧川越道で川越と大宮を結ぶ重要な生活道路であった。 旧川越道を5~6分歩くと十字路の向うに高さ220センチという大きな「庚申塔」(右)がある。この庚申塔は正徳5年(1715)に建てられたもの。庚申塔前の坂を とんび坂という。この場所には前渡石橋供養塔もあったようだが今は見当たらない。

十字路を左へ曲がり道なりに5~6分、県道56号と合流した所は水判土(みずはた)交差点。

交差点の右上は「慈眼寺仁王門」(左)。慈眼寺は慈覚大師円仁が天長3年(826)に開山した古刹。戦国時代の焼き討ちにより衰えた時期もあったが徳川家康が入府後、天海大僧正(家康の懐刀)の弟子・円海上人によって中興。

仁王門を潜ると目の前は平成11年に増改築が行なわれた「観音堂」(右)。ご本尊は昔から周辺の村人達に水波田(水判土)の観音様として信仰を集めていた千手観音菩薩。この菩薩像は開祖の慈覚大師円仁が彫ったものと伝えられている。

慈眼寺を出て10分、右奥の堂宇は阿弥陀如来像を安置するために建てられた「願満堂」(左)。 入り口を入った右手の板碑は文永5年(1268)や天文2年(1543)のもの。
この堂宇には徳川家康にまつわる言伝えが。家康が旗本数騎馬とともに休憩しようとしたものの戦機急にして小休止も許さず、当地で休むことを我慢して通り過ぎたことから「がまんどう」と呼ぶようになったという。

さらに15分ほど歩いた先に鎮座しているのは鍛冶職人が崇拝する「金山神社」(右)。由緒によると平安時代の住居跡から鉄製品や鉄屎(かなくそ)が出土していることから、当地で製鉄や鍛冶が行なわれていたことが推測できるという。

金山神社前から10分ほど歩き馬宮コミュニティーセンター(馬宮図書館)前まできたら右へ曲がると最終目的地の永田陣屋跡だが、左へ曲がって寄り道を。

向かった先は天文12年(1543)開創という古刹 「高城寺」(左)。江戸時代の後期に寺子屋が開かれ明治6年(1873)には寺内に小学校が開校。 現在の馬宮東小学校は高城寺の学校が発展したものだとか。

山門を入った左側に総高が170センチという比較的大きな「高城寺の庚申塔」(右)が立っている。寛文3年(1663)造立という比較的初期のもの。邪鬼を踏みつけた青面金剛の両脇に童子を従え、下部には二猿、その下に二鶏。 三猿ではなく二猿は珍しい。、

「永田陣屋長屋門」(左)に到着。

江戸時代初期に関東郡代であった伊奈忠治が荒川改修と新田開発の拠点として陣屋を築いたのが始まりで、後に家臣の永田氏が拝領。長屋門と筑地塀の建築年代は不明だが、江戸時代後期と推測されている。敷地の周囲を囲む「水堀」(右)は今もしっかりと残っている。

地元の人の話では映画の撮影に使われることが多いというが、大きな長屋門と筑地塀、門前には松並木と時代劇には最適のロケーションだ。

江戸時代を堪能できる赤山街道大宮道であった。帰路はコミュニティーセンター前からバスで大宮駅へ。

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