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嘉永年間創業という和菓子店のしおがまは 塩辛さの後にくるほんのりした甘さがたまらない。
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江戸を早朝に出発すると最初に泊まる宿場が岩槻であるが、ここはまた太田道灌が築いた岩槻城の城下町でもあった。
文化・文政(1804〜29)頃からは人形の町としても知られるようになり今でも多くの人形店が軒を並べている。 |
  膝子一里塚から10分ほど歩くと御成道は「右の細い道」(左)に入っていく。 旧街道らしい雰囲気の道を歩くと可愛らしい花が満開。思わずシャッターを押してしまったのだ。

10分ほど歩き三叉路を真っ直ぐ入ると現代の「御成道道標」(右)があり傍らに江戸時代の「道標」(右)がひっそりと。
コメント:道路の拡幅工事が行われ、御成道道標は撤去されました。
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 この先の御成道は国道16号を越え、県道122号に入ると「馬蹄形に大きく迂回した後」(左)宿場へ入ってゆく。何故こんなに遠回りしなければならないのか不思議なことだが当時は綾瀬川が蛇行しており湿地帯が行く手をふさいでいたのではないかと想像する。
迂回路を通って県道122号に合流する場所に、さあこれから岩槻だと言わんばかりに岩槻の象徴である「わらべ人形」(右)が。 |
 数分先の右奥は「久伊豆神社」(左)。久伊豆神社といえば岩槻の総鎮守。だがこの神社は規模が小さすぎる。調べたところ岩槻には同名の神社が9社もあり そのうちの1社だった。
神社横に「庚申塔」(右)が建てられているが右の庚申塔には元禄15年(1703)の銘が。元禄15年といえば赤穂浪士討ち入り事件のあった年。余談になるがマニアの間では岩槻型青面金剛と呼ばれ他とはちょっと違うようだが我には分かりません。
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 さらに数分先を左に入った奥は関東18壇林の一つであった「浄国寺」(左)。岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山で天正15年(1587)に創建。
江戸時代中期の「岩槻城主阿部家の墓所」(右)が本堂脇にある。ここには阿部家初代藩主正次の五輪塔と三代藩主完高の五輪塔があり、そのほかに家臣の墓や灯籠などがある。
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 街道に戻り先へ進むと黒色の建物が見えたがここは「人形歴史館」(右)。日光東照宮の造営にあたった工匠たちがここに住みつき周辺で取れた桐を材料にして人形造りを始めたが これらの歴史や作品などを見ることが出来る。
、「岩槻郷土資料館」(右)は昭和5年(1930)に建てられた岩槻警察署旧庁舎を利用した資料館で、昔の民具などがが展示されている。
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 郷土資料館の数分先、左側の八百屋前に「高札場」(左)が復元されているが この高札場は最近造られたもの。江戸時代の高札場はもう少し先にあったようだ。
高札場の斜め向こうの「田中屋本店」(右)という和菓子店は嘉永年間(1844〜55)創業の老舗。しおがま が美味いんだ。塩味の次にくる ほんのりした甘さ がたまらない。
この先の埼玉信金辺りに本陣が有ったようだが今は標識もなく 往時の面影は全く見られない。残念だねー。 |
  田中屋本店の先、路地を入った奥の芳林寺で見たのは「太田道灌像」(左)と「太田道灌御霊廟」(左)。太田道灌は相州糟谷(神奈川県伊勢原)で謀殺され荼毘に付されたが分骨されゆかりの地にも埋葬。
街道に戻り、少し歩くと岩槻駅入口交差点だがその先の「岩槻市街」(右)は電線も電柱も無いすっきりした町並み。だが、昔の面影はすっかり無くなってしまった。 |
 岩槻に過ぎたるものが二つある。児玉南柯(こだまなんか)と時の鐘 と詠われた児玉南柯(儒学者・岩槻藩士)が立ち上げた私塾「遷喬館」(左)が右側の一本裏の道筋にある。
寛政11年(1799)に開設された遷喬館は後に藩校となり明治維新まで続いていた。解体・復元が行われ当時の姿がよみがえった建物は茅葺の立派なもの。無料で見学できるのがうれしい。
さらに一本奥の道筋には造り酒屋の「鈴木酒造」(右)。白壁に杉玉がちょっと不似合いだが中はケヤキの梁や桁がむき出しという趣きたっぷりの建物。極上大吟醸・万両 がそれはそれは旨い。
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 遷喬館が茅葺の情緒ある建物であったが街道に戻り左側の路地を入ると突き当たりにも茅葺の建物が見える。「願生寺の茅葺本堂」(左)だが建物が大きいだけに見ごたえ充分。
コメント:本堂は立て替えられ、現在は茅葺ではありません。
数分先右側の岩槻区役所(元市役所)前に「一里塚跡碑」(右)が建てられている。市役所建設時に一里塚を撤去してしまったのだとか。もったいないことをしたものだ。
コメント:区役所はいわつき人形博物館に変わっています。 |
 撤去といえば、延々8kmに及んだ岩槻城大構え(おおがまえ・土塁)も ほとんど撤去されてしまったが、ほんの一部だけ残る場所がある。岩槻区役所と反対側の路地を入ると高台に鎮座しているのは「愛宕神社」(左)。この神社は当時の大構えの上。
街道に戻り次の渋江交差点を左に曲がる道が御成道であるが右に曲がって「時の鐘」(右)を見にいくことに。寛文11年(1671)、時の城主安部正春の命令で作られたが現在の鐘は享保5年(1720)に改鋳されたもの。江戸時代後期には1日12回も撞かれたそうだが今だったら「うるさい」と苦情の連発だね。 |
 街道に戻りもうちょっと寄り道を。渋江交差点からちょっと奥まった場所の浄安寺山門は岩槻城の田中口門を移築したものであるが「槍返しの門」(左)とも云われていた。
8代将軍吉宗一行が田中口門を通ろうとしたところ行列の先触れが「槍がつかえるから屋根を壊せ」と悶着。吉宗が「槍を返して(倒して)通りなさい」と一言。以降槍返しの門に。
「岩槻にすぎたるもの・・・」と言われた「児玉南柯の墓」(右)が本堂左奥にある。ここにも円空仏が有りましたが見られませんでした。 |
 御成道は区役所先の渋江交差点で左に曲がっていくのだが ここまできたら岩槻城址に寄り道しないわけにはいかないだろう。15分ほど歩いた先が岩槻城址公園。保存されていた材料で「岩槻城黒門」(左)と裏門が復元されている。黒門は門扉の両側に小部屋を設けた立派な長屋門。
黒門前を通って奥に進むと「岩槻城空堀」(右)。この堀は東海道の箱根西坂途中にあった山中城の障子堀と同じ技術が使われていた。城址公園はこのほかにも八ツ橋や鍛冶郭跡・人形塚など見所が多い。 |
 岩槻城址を出たら岩槻総鎮守の「久伊豆神社」(左)にも寄り道を。あまり大きくはないが きりっと引き締まった端正な社殿は比較的最近再建されたもの。だが神社の歴史は大変古く創建は1400年前の欽明天皇の時代。
境内に「鶏」(右)が放し飼いになっているが この鶏が人間を怖がらないんだよ。近づいてカメラを向けてもチラッとこちらを見るだけ。もっとも餌に夢中だったからなー。 |
 久伊豆神社参道の途中から街道に戻ったら龍門寺へ。岩槻藩主「大岡忠光の墓」(左)がある。岩槻藩初代高力家から9番目の城主であるが大岡家は明治維新まで8代続いた。
龍門寺から街道に戻ったら「元荒川」(右)に架かる慈恩寺橋を渡って幸手追分を目指すのだが、途中には「現存の一里塚」が2箇所も有るという。
まだまだ楽しめそうだ。
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