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東海道五十三次道中記
三条大橋   ついに到着しました。 京都・三条大橋       街道地図

鴨川に架かる三条大橋は天正18年(1590)に豊臣秀吉が造営させたもので、その後、幾たびか改修が行われ現在の橋は昭和28年に(1958)架けられたもの。
擬宝珠は12あるが天正年間の擬宝珠も含まれている。また池田屋騒動のときに付いたのではないかという刀傷を負った擬宝珠もある。三条大橋は渡月橋とともに
京都を代表するシンボル。この旅の終わりが三条大橋で良かった。

平成18年6月12日

京都に入った旧東海道はJR山科駅前を通り三条通りへと向かう。
山科駅から数分の所に「五条別れ道標」(左)がある。「右ハ三条通り 左ハ五条橋・ひがしに六条大佛・・・」なんとも文字が多い。別れ が気になるが単に分かれ道・・・ということのようだ。

この先で旧東海道は三条通りに入るが ここで寄り道を。
JR草津線のガード下を歩いた先を右に入った奥は「天智天皇陵」(右)。玉砂利の真っ直ぐな道を進むと突き当たりが山科陵。静寂そのもの、ちょっと厳かな気持ち。


三条通りに戻り左側に渡ると冠木門の先に整備された道が続いている。が、ここは違う。少し先の「左に曲がる細い道が旧東海道」(左)。間違える人が多いようだが罪な冠木門だ。

「旧東海道」(右)は1.5kmほど続くが表示が全く無いので少々不安に。 途中から緩い上り坂になるが、この辺りから地蔵堂がぼつぼつ現れるので確かに旧道を歩いているなという感触は得られる。


坂の途中に「亀の水不動」(右)が鎮座。洞窟の奥にお不動様が、入口の亀の口からは清水が流れ落ちるという変わった水場だ。この先の日ノ岡峠道改修工事を行っていた木喰正禅上人が掘り当てた水場で行き交う旅人の喉を潤してきた。

亀の水不動からさらに10分ほど歩くと「旧東海道」(右)と刻まれた道標が立てられているが、たぶん多くの人が「もっと手前に有ったらなー」と思いながら通り過ぎていくのだろう。

道標の先で三条通りに合流。合流点が車石広場で京阪京津線の舗石として使われていた石が展示されている。元々は牛馬車の通行を楽にするための轍石で、往時の「車石道」(左)を少しだけ再現している。
ちなみにこの区間の線路は地下鉄化され路面電車は廃止となった。

車石広場の前を通ってしばらく歩くと蹴上(けあげ)浄水場の横に出るが、その先のY字路を左に曲がり都ホテルの前に出ると あとは一直線で三条大橋に行かれる。「道路標識」(右)にも三条大橋の文字が。


都ホテルの前を通って10分、白川橋際に「三条白川橋道標」(左)が建てられている。「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と刻まれたこの道標は延宝6年(1678)建立という京都最古のもの。

三条大橋手前の道路際にそびえる銅像は寛政三奇人の一人と云われた「高山彦九郎皇居望拝の像」(右)。江戸後期、諸国を歩いて勤皇を唱えた彦九郎は九州・久留米で自刃しているが幕末の勤皇の志士に大きな影響を与えている。

ついに三条大橋到着。てくてく歩いて492km。思えば日本橋を出発したときは本当に歩き通せるのだろうかと少々不安が。しかし目の前の橋を渡ってしまえば旅も終わり。

いっきに渡ってしまうのがもったいなくて上流側に移動して「東詰め親柱」(左)を写真に収めた。この後も橋の下に降りたり土手の上流から写真に撮ったりとしばらく周辺を散策。

やっと歩き出したが「ここまで歩いてきた」という達成感より「これで終わってしまった」という寂寥感のほうが強かったような気がする。橋の中ほどで「鴨川」(右)を撮影。 渡り終わったところで何枚か撮ったが「HPはこっちにしよう」と決めたのが冒頭の写真。


西詰め下流側に 「弥次さん喜多さん」(左) の銅像がある。このお二人、とても若々しい。「十代の頃の弥次さん喜多さん」かなと思うような顔つきがなんとなく滑稽だ。冗談はさておき、これで旅は終わってしまった。

なんとなく去りがたい思いが強く あっちを見たり こっちを見たり、ついに歩き出し高瀬川に架かる「三条小橋」(右)を渡って帰路に。


この後に旅の簡単な記録と一里塚写真集を追加しておきました。


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