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①鎌倉から金沢文庫  ②金沢文庫から保土ヶ谷  ③保土ヶ谷から師岡熊野神社  ④師岡熊野神社から丸子の渡 ⑤丸子の渡から大井 ⑥大井から赤羽橋 ⑦赤羽橋から浅草  ⑧浅草から白髭橋  ⑨白髭橋から国府台

⑦赤羽橋から浅草・駒形堂 街道地図

鎌倉街道下道の旅、7回目は赤羽橋から。

赤羽橋交差点を渡ったら国道1号と別れる右側の道が旧鎌倉街道だが今回は芝・増上寺などに寄り道
することにしたのでさらに右へ曲がって行く。
増上寺周辺を散策した後、街道に戻ると増上寺裏から先の旧道はほぼ消滅状態。芳賀善次郎氏によると、
愛宕神社下を通り皇居大手門前から将門塚の近くを通って現・江戸通り辺りを北進したのではないかと
推測している。
今回の旅では皇居外苑の内堀通りを通って大手門前で右折し日本銀行の脇まで来たら旧日光街道に入って
横山町の繊維問屋街を通り浅草橋を渡って国道6号に入り浅草まで歩くことにした。

 平成28年9月17日

赤羽橋を渡ると先ほどから見えていた「東京タワー」左)が目の前に。その先の赤羽橋交差点を渡ると道路は字型に分かれるが、ここを右へ行く道が旧鎌倉街道。今回はちょっと寄り道したいので字の道に入らず交差点を右へ。

数分歩いたら芝公園の林へ入るとちょっとした小高い丘があるが ここは五世紀ごろ築造されたという「丸山古墳」(右)。墳丘の下部は丸山貝塚でその上部が古墳。

古墳を下りて数分歩いた先の神社は「芝東照宮」(左)。
徳川家康が生前、自ら命じて彫刻させた等身大の像を増上寺に祀るよう遺言。安国殿に安置されたが明治元年(1868)の神仏分離令で増上寺から分かれ芝東照宮に。

日比谷通りに出て数分、左手奥の立派な門は「旧台徳院霊廟惣門」(右)。二代将軍秀忠の霊廟があった場所だが先の大戦で霊廟は焼失。惣門だけは焼失を免れたのだが この惣門を見ると霊廟がいかに絢爛豪華であったかが伺い知れる。

その先の 「増上寺三解脱門(三門)(左) は400年近く前の元和8年(1622)建立。戦災で多くの建物を失った増上寺だが焼失を免れた三門は江戸時代の雰囲気たっぷり。

三解脱門を入ると右手に「鐘楼堂」(右)があるが、ここに下がっている大梵鐘は延宝元年(1673)に鋳造されたもの。高さ3m、重さ15トンという大きなもので江戸三大名鐘の一つ。
江戸時代の川柳に    「今鳴るは芝か(増上寺) 上野か(寛永寺) 浅草か(浅草寺)」 

正面に見える「増上寺大殿」(左下)は昭和46年(1971)の再建。

明徳4年(1393)開山の増上寺は徳川家康が関東の地を治めるようになると徳川家の菩提寺として手厚く保護され、関東十八檀林の筆頭として興隆。山内寺院48宇、常時3千人の僧侶が修学していたという。

大殿右手から裏へ回ると「徳川将軍家墓所」(右)があるがその途中に思わず写真に撮りたくなるような風景が。

徳川家の霊廟は絢爛豪華この上ないものであったが戦災で焼失。 現在の墓所に改葬されているのは2代将軍秀忠夫妻など6人の将軍とその正室だが宝塔が設けられただけの質素な墓所になってしまった。

上寺にはまだまだ沢山の見どころがあるが それは別の機会に。 増上寺から街道に戻ると その先は消滅。近い道としてプリンスホテルに沿って右へ曲がり次の信号で左へ曲がり、
都道301号に入って行く。5~6分歩いた先に見えたのは2階建の立派な「青松寺山門」(左下)

山門の両側には仁王像ならぬ四天王像が境内に入ろうとする悪者に睨みを利かせている。青松寺は太田道灌が文明8年(1467)に創建した寺院で長州藩、津和野藩などが江戸での菩提寺としていた。

その先数分、左手奥に見える長~い急な石段は「出世の石段」(右)と呼ばれる愛宕神社への参道。
この急階段を馬で駆け上がったのが讃岐・丸亀藩の曲垣平九郎。この時の将軍 家光公より 「日本一の馬術の名人」 と讃えられ その名は一日にして全国にとどろいたという。時は寛永11年(1634)であった。

ビルの谷間に古民家が。ここは明治5年(1872)創業の「大阪屋 砂場蕎麦店」(左)。大阪城築城の際、砂置き場に開店した蕎麦店がルーツと云われている。現在の建物は大正12年(1923)に建てられたもの。

ほどなく見えてくる森は「日比谷公園」(右)。 江戸時代には江戸城日比谷見附があり その外側に仙台藩伊達家、佐賀藩鍋島家、盛岡藩南部家 等々の錚々たる藩の江戸上屋敷があった。

日比谷交差点側の入口から公園に入ると見える石垣は江戸城日比谷御門の一部。「日比谷見附跡」(左)と記された標柱と説明板が設置されている。

奥へ入ると心字池があり その奥は仙台藩伊達家の江戸上屋敷があった場所。一角に「伊達政宗終焉の地」(右)と記された説明板が。政宗がこの地で70年の生涯を閉じたのは寛永13年(1636)であった。

祝田橋を渡り内堀通りに入ると目の前に広々とした松原が広がっているが ここは「皇居外苑」(左)。
ちょっと足を延ばすと井伊直弼が暗殺された桜田門や新年の一般参賀で渡ることができる二重橋近くまで行かれる。

今回は外苑の一角にある「楠木正成像」(右)を見ることに。この場所に何故楠木正成なのかは横に置いといて高村光雲らによって10年の歳月をかけ明治33年(1900)に完成。

この辺りの鎌倉街道はほぼ消滅状態。今回は大手門前まで来たら右折しJRのガードを潜り呉服橋交差点で左折して一石橋を渡っていく。

「一石(いっこく )橋」(左)の名前の由来が面白い。江戸時代、橋の両側に後藤家の屋敷があったので「後藤=五斗」から五斗+五斗=一石。 今の若い人には通じないかな。

一石橋の南詰めに「満(ま)よひ子の志るべ」と刻まれた「しるべ石」(右)が建てられている。
この周辺は大変な繁華街で迷子が多かったようだ。そこで町内の有志で作ったのが しるべ石。左右の窪みに迷子や尋ね人の特徴を記した紙を貼り告知したのだとか。

一石橋のすぐ上流に架けられている橋は常盤橋だが さらにその上流に架けられている石橋は明治10年(1877)に架け替えられた「旧常磐橋」(左)。気が付きにくいが常盤と常磐が使い分けられている。

橋を渡ると石積みの枡形があり その奥が「常磐橋門跡」(右)。
奥州街道に続く正門であったことから敵の侵入を防ぎ味方の出撃を容易にするような枡型門が作られていた。
コメント:常磐橋周辺は整備工事の為しばらく閉鎖。この写真は甲州街道を歩いたとき撮影したものです。

この先は日本銀行を半周廻って旧日光街道に入って行く。

昭和通りを横断すると目の前に「小津和紙」(左)が見える。承応2年(1653)創業の手漉き和紙専門店であるが和紙博物館、紙漉き体験工房なども併設されているのでの覗いてみると面白い。

次の十字路を左に入ると「宝田恵比寿神社」(右)がある。小さな神社だが徳川家康と関係があるということなので訪ねてみた。宝田村の鎮守であったが家康から「江戸城拡張の邪魔だからどきなさい」と言われ この地に移ってきたのだとか。 一般的にはあまり知られていないが「べったら市」の神社と言えば知る人も多いのでは。

街道に戻って数分、駐車場の脇に旧日光街道本通りと刻まれた石碑がポツンと立っている。すぐ先の交差点を左に曲がって寄り道を。

国道6号を横断した先の大安楽寺「江戸伝馬町処刑場跡」(左)。
大安楽寺周辺一帯は江戸時代270年間に渡って伝馬町牢屋敷があった場所。全国から獄送りされた囚人は数十万人とも云われている。大安楽寺境内の地蔵尊がある場所が死刑場だった。

大老・井伊直弼による安政の大獄で捕えられた吉田松陰はここに送られ安政6年(1859)に処刑。享年30歳であった。「松陰先生終焉之地碑」(右)があるのは大安楽寺対面の十思公園内。

街道に戻り次の十字路を右に曲がるとビルの谷間に小さな神社が。その名は「池洲神社」(左)。その昔、池洲屋敷の池から お稲荷様が出現。喜久井大納言なる人物が一宇を建立し池洲神社を創建したのだという。ところが喜久井大納言なる人物が皆目不明。

ミステリーを残したまま街道に戻り5~6分、見渡すかぎり衣料品店が続くが ここは江戸時代から続く「横山町繊維問屋街」(右)。右に曲がっても、左に曲がっても衣料品店。圧巻!

ほどなく国道6号に合流。地下道で向う側に渡ると「郡代屋敷跡」(左)の説明板が目に入る。関東諸代官の統括や幕府直轄地を管理する役宅であったが地元の人達は長らく 郡代屋敷と呼んでいた。

すぐ先が神田川に架かる浅草橋だが川面を見ると屋形船が何艘ももやっている。風情あるね~

橋を渡ると植込みの中に「浅草見附跡碑」(右)が。ここは江戸36門の一つ、浅草御門があった場所。日光・奥州街道の重要な警護拠点として寛永13年(1636)に設けられた。

この先に歴史ある神社が3社もあるのでご紹介。

JR浅草橋駅近くの「銀杏岡八幡神社」(左)には次のような伝説が。
源頼義・義家(八幡太郎)父子が奥州平定に向かう途中 当地で小休止、その折、銀杏の小枝を地面に差して「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願。 再びこの地に帰り立ったとき銀杏の枝は大きく繁茂。これに感謝し太刀一振りを捧げて八幡宮を勧請したのだという。

数分先の「須賀神社」(左)の歴史はさらに古い。 推古天皇9年(601)の夏、疫病が流行したが牛頭天王を祀った祠に病気平癒を祈願したところたちどころに快気したという。明治元年に須賀神社と改称。

須賀神社よりさらに古い歴史を持つ神社が「第六天榊神社」(左)。二千年近く前の景行天皇40年(110)、日本武尊が東国の鎮定に向かった際、鏡を治め皇祖2神を祀ったのが始めとされている。 もとは第六天神社と称し鳥越の丘あったが享保4年(1719)に浅草不唱小名に遷座。昭和3年(1928)に浅草文庫跡である現在地に再遷座。

その浅草文庫であるが明治8年(1875)に官立の図書館として開館したが明治14年(1881)に閉館。 境内左手に「浅草文庫跡碑」(右)が建てられている。

蔵前一丁目交差点を右に曲がり数分、隅田川に架かる蔵前橋際で見たのは松の木と「首尾の松」(左)と刻まれた石碑。 由来は幾つかあるが氾濫した隅田川に人馬もろとも飛び込み見事に対岸にたどり着いた阿部豊後守忠秋を見た三代将軍家光が謹慎を解いたことから、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

道路を挟んだ対面の碑は「浅草御蔵跡碑」(右)。全国の天領から集まった年貢米を保管するために建てられた米蔵で蔵の前を「御蔵前」と呼んでいた。「蔵前」という町名はここから。

街道に戻ると浅草が近づいてきたが、もう一か所寄り道を。

街道から一歩裏通りへ入った静かな場所に鎮座しているのは「蔵前神社」(左)。 徳川5代将軍綱吉が元禄6年(1693)に江戸城鬼門除けの守護神として京都の石清水八幡宮を勧請して創建。
勧進大相撲発祥の地でもあることから玉垣には千代の山や鏡里喜代治など多くの関取の四股名が。

街道に戻り5~6分、街道沿いの「駒形どぜう」(右)は徳川11代将軍の家斉公時代から続く老舗。越後屋助七なる人物が江戸に出て奉公したのち享和元年(1801)に浅草駒形でどぜう鍋やどぜう汁を売り出したのが始まりとか。

駒形橋西詰交差点の向うに「駒形堂」(左)が見える。浅草寺縁起によると朱雀天皇の天慶5年(942)の創建。
名称の由来は諸説あるが隅田川から見るとまるで白駒が馳けているようなので「駒馳け」が訛ったとも、観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛った、とも云われている。

境内に設置されている石碑は「浅草観音戒殺碑」(右)。浅草寺本尊の観世音菩薩が隅田川から発見された霊地であることから元禄5年(1692)に殺傷禁断の地とする法度が出され翌年、戒殺碑が建てられた。

もう少し歩くと浅草寺の雷門だが近くに地下鉄浅草駅の入口があったので今日はここまで。

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