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①鎌倉から金沢文庫  ②金沢文庫から保土ヶ谷  ③保土ヶ谷から師岡熊野神社  ④師岡熊野神社から丸子の渡 ⑤丸子の渡から大井 ⑥大井から赤羽橋 ⑦赤羽橋から浅草  ⑧浅草から白髭橋  ⑨白髭橋から国府台

⑧浅草から白髭橋まで 街道地図


鎌倉街道下道の旅 8回目(最終回)は浅草から千葉県市川の国府台までの旅だが少々長文になるので、
まずは隅田川に架かる白髭橋まで。 

浅草に来たら浅草寺は避けて通れない。雷門から仲見世商店街を通り浅草寺・浅草神社を散策。街道に
戻って隅田川沿いに白髭橋まで歩くのだが、途中、あちらこちらに寄り道をしながらの旅となってしまった。


平成28年10月3日

最終回のスタートは「浅草寺雷門」(左)から。門の両側には仁王像ならぬ風神・雷神像が鎮座していることから正式名称は「風神雷神門」。門を潜り振り向くと大提灯に記された文字は風雷神門

浅草寺は都内最古の寺院。推古天皇36年(628)に隅田川で漁をしていた漁師の網に観音像がかかったことが始まり。

雷門を潜り、仲見世商店街を通り、宝蔵門を抜けると正面に本堂が見える。ここはいつ来ても人がいっぱいだ。本堂の左手にひっそりと立っているのは一石橋際でも見た「しるべ石」(右)。この辺りも迷子が多かったんだろうな~

浅草寺には芭蕉句碑が2か所にある。
境内の左手、 新興山 には沢山の石碑があるが その中に「三匠句碑」(左)という石碑があり宗因・芭蕉・其角の三俳人の句が刻まれている。代表して
   「花の雲 鐘は上野か 浅草か   芭蕉」

境内右手、弁天堂の入口にも「芭蕉句碑」(右)が。
   「くわんをんの いらかを見やりつ 花の雲   はせを」

浅草寺まで来たら三社祭が有名な「浅草神社」(左)を素通りするわけにはいかない。 起源は浅草寺と同じ。明治初頭の神仏分離令で三社明神社となり後に浅草神社と改称。

社殿は三代将軍・家光の寄進により慶安2年(1649)に完成したもので国の重要文化財。

境内左手に歌舞伎俳優の「初代中村吉右衛門句碑」(右)という思わぬものが。高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人にもなったという。   女房も 同じ氏子や 除夜詣で   

浅草寺で思わぬ長居をしてしまったので急いで街道に戻り次を目指そうではないか。

京成線浅草駅を過ぎて数分、左へ入った花戸川公園に「姥ケ池跡」(左)なる場所があるが、こんな伝説がある。

街道に戻り言問橋西交差点まで来たら その先の字路を左へ行く道が旧日光街道で右側が旧鎌倉街道。
ここでも寄り道を。交差点を左に曲がると「旧・浅草猿若町」(右)の表示が。天保の改革で歌舞伎小屋が廃止となったが遠山の金さんの献策でこの地に復活。江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎の名から猿若町と命名されたが今は浅草六丁目という無粋な町名に。

街道に戻り旧鎌倉街道に入って数分、「待乳山(まつちやま)聖天」(左)にも寄り道を。
推古天皇3年(595)、この地が突然盛り上がり金龍が舞い降りたとか。その6年後、大聖歓喜天が出現。それ以来民衆の篤い信仰が始まったという。

境内左手にちょっと珍しい「銅造宝篋印塔」(右)がある。天明元年(1781)に造られたもので銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく貴重な文化遺産。

待乳山聖天から街道に戻ったらもう一カ所寄り道を。

招き猫発祥の地 と伝わる「今戸神社」(左)は今から千年ほど前の康平6年(1063)、源頼義・頼家父子が京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりで昭和12年(1937)に今戸神社と改称。招き猫 と言えば世田谷・豪徳寺が知られているが今戸神社と豪徳寺が発祥地争いをしているようだ。インパクトの強さは豪徳寺かな。

境内左手に今戸焼発祥地碑が建てられているが、その横にあったのは「沖田総司終焉の地碑」(右)。 肺の病に侵されていた沖田総司は今戸八幡(現・今戸神社)で若き命を閉じている。

街道に戻り15分ほど歩いたら橋場2丁目交差点を左へ曲がり、さらに数分先の「妙亀塚」(左)に寄り道を。
隅田川を渡った先の木母寺に 梅若伝説 が残されているが、ここは梅若の母親が隅田川岸で梅若の死を知らされ髪を下ろし妙亀尼と称して庵を結んだ場所。時は平安時代の話。

街道に戻る途中に見たのが「お化け地蔵」(右)。享保6年(1721)建立の石地蔵は大きな笠を被っていたが その笠が時々向きを変えるのでいつしか お化け地蔵 と呼ばれるように。

寄り道ばかりしてしまったが やっと「白髭橋」(左)の袂に到着。大正3年に木橋が架けられたが それまでは渡しであった。現在の白髭橋は昭和6年(1931)に架けられたもの。

橋の袂の背高の石碑は「明治天皇行幸對鸚荘遺跡碑」(右)。

隅田川畔一帯は風光明媚な場所で著名人の屋敷が軒を連ねていた。對鸚荘もその一つで政治家の三条寒美別邸。明治天皇がこの邸を訪れたのは明治6年(1873)であった。

その先の交差点を渡ると「橋場の渡し跡」(左)の説明板が建てられている。江戸名所図会によると、古くは 隅田川の渡し と呼ばれ伊勢物語の在原業平も渡河した渡し場だったとか。

100mほど先に鎮座するのは神亀元年(724)創建という「石浜神社」(右)。源頼朝が奥州征討の際に社殿が寄進され その後は千葉氏・宇都宮氏らの崇敬篤く関八州より多くの参詣者を集めたという。

石浜神社付近には室町時代の中頃、千葉氏の居城であった石浜城があったということだが詳しいことは分からない。

隅田川を渡るための渡し場は現・白髭橋あたりから石浜神社のあたりまで何度か変わっている。

今は白髭橋(左)を渡って対岸へ。味わいのある橋名だが向島白髭神社に由来している。渡し場名も台東区側では橋場の渡しだが墨田区側では白髭の渡しと呼んでいた。

橋を渡ったら都営白髭アパートと隅田川の間にある公園内が旧鎌倉街道のルートに近い。

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