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川越街道 道中記

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白子宿                                         街道地図
 しらこじゅく
白子は渡来人が開いた場所とされ古くは新羅と呼ばれていたのが白子に転訛したと云われている。
豊富な湧き水を利用した酒造りが盛んに行われ賑わった宿場であったが、東武鉄道が開通すると
両隣りの和光と成増周辺に賑わいが移り今は静かな町並みに変わってしまった。

平成25年4月1日
 
旧道の練馬宿から国道254号(現川越街道)へ出てかれこれ30分、「旧川越街道」(左)は再び旧道へと入っていく。

道はこの先の白子川に向ってかなり急な「新田(しんでん)坂」(右)を下るのだが かつては大きく曲がりくねった急坂だった。今は国道254号に沿った真っ直ぐな下り坂。

新田坂を下った左側のちょっとした広場に4基の「石造物群」(左)が据えられている。
説明板によると周辺から集められた石造物で、道祖神は文久3年(1862)、常夜灯は文政13年(1830)の造立。地蔵と稲荷祠は不明だが4基とも板橋区の有形文化財に登録。

その先に地元の人から天王様と呼ばれている「八坂神社」(右)が鎮座。
コメント:天王様=八坂神社の別称

八坂神社の説明板に 「新田坂から白子川の間は新田宿と呼ばれた集落で対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達した。昭和初期には小間物問屋や魚屋、造り酒屋が軒を連ねていた」 とある。

その「旧新田宿」(左)はこの先の白子川まで200mほどの僅かな区間。今はマンションなどが建ち並ぶが、かろうじて往時を偲ばせてくれるのが1軒の「古民家」(右)。

数分歩くと「白子橋」(左)に到着。橋の親柱にはめ込まれたプレートに 清水かつら が作詞した「くつが鳴る」が記されている。 多くの童揺を作詞した 清水かつら が晩年を過ごしたのは白子であった。

白子橋を渡ると白子宿に入るのだがちょっと寄り道を。旧街道は橋を渡った先を左に曲がっていくが真っ直ぐ進むと「滝坂」(右)と呼ばれる急な上り坂。
坂の途中にある説明板に「この坂も滝のように湧水が流れ落ちていたことから滝坂と呼ばれていました」とある。

街道に戻り次ぎの横道を入ると白子の鎮守「熊野神社」(左)。発祥は不明だが社伝によれば一千年の歴史があるという。

熊野神社左手の高台にある寺院は平安時代に慈覚大師円仁により創建されたと伝えられる清龍寺・不動院。その不動院にあるのは滝行が行われる「不動の滝」(右)。龍神の口から流れ落ちる滝で滝行を行うそうだが訪れた日は滝の流れが無かったのが残念。

街道に戻り県道との交差点まで来るとタイル貼りの建物が2棟見えるがここは「本陣跡」(左)。ちなみに白子宿には、上・中・下宿に本陣があり持ち回りだった。中宿の本陣は富澤家が勤めていた。

交差点を渡った先の古民家は明治期に建てられた荒物問屋だった「旧佐和屋」(右)の富澤家住宅。交差点の左手に見える古民家は柴崎米店
コメント:旧佐和屋のご親戚の富澤様から「白子宿の開設は天正15年(1587)と聞いています」というメールをいただきました。 天正15年といえば豊臣秀吉が九州に出陣した年。 河越街道はその頃すでにしっかりとした宿駅制度が出来上がっていたのですね。

旧佐和屋の先からS字状の急な上り坂となるが「上るのに苦労するほど大きな坂」だったことから「大坂」(左)と名付けられたそうな。荷車の上りには「おっぺし」が大活躍したが今もかなり急坂。

坂を上りきってやれやれと思ったら街道を横切る笹目通りに横断歩道が無い。疲れた足で歩道橋の階段を上るのは辛い。
歩道橋を降りるとその先は明るく開けた下り坂となるが、この坂の名前がなんと「くらやみ坂」(右)。かつては木が鬱蒼と繁った薄暗い坂道だったのだろう。

坂を下った先に新築された屋敷門があるがその奥の建物は旗本酒井家の代官を務めた柳下家の「旧代官屋敷」(左)。

代官屋敷の先は旧街道の雰囲気残る緩い上り坂。のんびりと坂を上っていると伯楽製鋲所入口に真新しい御堂が建てられていたので覗いてみると「馬頭観音堂」(右)であった。傍らの説明板に「文化15年(1818)、近郷近在の馬持ちによって東松山・妙安寺の馬頭観音を模して造られた」とある。

旧道はほどなく県道109号に合流するが道路の向こう側に石碑らしいものが見える。何だろう?近づいてみると「庚申塔」(左)。蝋燭が置かれ、お神酒が捧げられている。なんとまあ幸せな庚申様だ。

街道はこの先で東京外環自動車道を横断歩道橋で渡り、しばらく県道を歩くと次ぎの宿場である膝折宿へと入っていく。

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