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川越街道 道中記

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膝折宿                                             街道地図
 ひざおりじゅく
膝折宿は天領であったためだろうか江戸に近い方を上宿と呼び川越側を下宿と呼んでいた。 鷹狩へ行く大名や
この先の平林寺参詣客で大変賑わっており、本陣、脇本陣も用意されていたが今は静かな街道に変わっている。
膝折とはぶっそうな地名だが 『敗走していた小栗判官が乗った愛馬・鬼鹿毛がついに力尽きて膝を折り息絶えた
のがこの地』 という伝説が残されている。

 平成25年4月19日 

東京外環自動車道を歩道橋で越え5〜6分歩いたらちょっと寄り道を。向った先は「うけら庵跡」(左)。
天明初期(1782〜83頃)、鈴木家6代目松陰が小さな墓守堂を建て うけら庵 と命名。文化文政(1804〜1829)の頃には太田蜀山人など文人墨客が集まり文化交流の場として栄えた庵であった。

「うけら」とは武蔵野台地に繁殖していた野草で万葉集にも3首ほど詠われている。 
 恋しけば袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出(づ)な ゆめ  巻14−3376

街道に戻って30分ほど歩くと県道は左に曲がっていくが「旧川越街道」(右)は真っ直ぐの狭い道。

緩い坂道を下っていくと左側の小さな堂内に安置されていたのは「膝折不動尊」(左)。由緒が無いため詳しいことは分からないが周囲の植木は綺麗に刈り込まれロゴが入った提灯まで。大事にされているようだ。

不動尊の先から はんぱでない急な下り坂 となり先ほど分かれた県道に合流するが この坂を「稼ぎ坂」(右)と呼んでいた。おっぺしにとっては良い稼ぎ場所だったのだろう。

坂を下って1〜2分の右奥は「一乗院平等寺」(左)。開山時期は不詳だが一乗院略縁起によると「高麗人ノ落人コノ地ニ居住シ、十一面観音ヲ勧請シテ一宇ヲ建立ス」(要約)とあることから奈良時代のようだ。

一乗院の墓地から南北朝時代〜室町時代にかけて造立された板碑が160基ほど出土。これらは朝霞市の文化財。
膝折宿は三方が高台となっているため坂が多いが一乗院墓地脇の急坂を「卵塔坂」(右)と呼んでいる。

街道に戻り数分歩くと重厚な建物が目に入るが、ここは「旧脇本陣村田屋」(左)。村田屋は屋号で高麗家が脇本陣を務めていたが今もこの家は高麗家の住家。

斜め先向かい側の郵便局辺りが「牛山家本陣跡」(右)だが、表示、説明板の類は無い。
旧脇本陣も説明板などが無いが朝霞市教育委員会は旧川越街道という歴史遺産に興味がないのだろうか?

1〜2分歩いた先の 「伝統の味百有余年」と記された看板の店は「和菓子の喜楽屋」(左)。女将さんの話では創業200年以上で今の店主は七代目だという。これは是非、老舗の味を賞味しなければ。
購入したのは全菓博栄誉大賞を受賞したという人参羊羹。オレンジ色でほんのり甘く芋羊羹と似た食感はなかなか美味い。

旧街道は喜楽屋の先で県道と別れて旧道に入り「黒目川」(右)を渡っていく。そういえば東京に黒目ならぬ目黒川があったなー。

黒目川を渡った数分先の三叉路に「庚申塔」(左)が立っているが銘が元分元年(1736)。実に280年近く前に建立されたもの。道は庚申塔の所で左右に分かれていくが右側を かごやの坂、左側を「たびやの坂」(右)と呼んでいた。籠屋や足袋屋があったからだろうか。旧川越街道はたびやの坂を上っていく。

膝折宿は稼ぎ坂を下って たびやの坂を上っていくのだが そのほかにも合同坂や よりやの坂、卵塔坂など坂の多い宿場であった。

たびやの坂を上がってしばらく歩くと先ほど分かれた県道に合流。その合流点に「横町(よこまち)の六地蔵」(左)が鎮座。享保17年(1732)に造立された丸彫り立像は長い間旅人の安全を見守ってきたのだろう。その他に正徳4年(1714)造立の「地蔵菩薩」(右)と宝暦6年(1758)銘の「庚申塔」(右)もある。それぞれに大事にされているようだ。

街道はこの先しばらくは県道を歩き次ぎの大和田宿に入るのだが ちょっと寄り道をしていくつもり。


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