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西浦賀道 道中記 

①戸塚から鎌倉まで前半   ①戸塚から鎌倉まで後半  ②鎌倉から葉山一色まで前半  ②鎌倉から葉山一色まで後半  ③葉山一色から大津まで

①戸塚から鎌倉まで前半
戸塚・八坂神社から大船・離山富士見地蔵まで
街道地図

西浦賀道のスタートは東海道戸塚宿の八坂神社前から。神社前交差点で東海道と分かれた西浦賀道は倉田、小菅ケ谷を通り
いたち川 まで来たら鎌倉街道中道に合流。笠間、大船を通って北鎌倉、鎌倉へと入って行く。 この区間は往時の道筋がよく
残っており旧道をたどる楽しみがある。

 平成29年6月1日

旅立つ前に東海道戸塚宿の鎮守であった「八坂神社」(左)に旅の安全祈願を。
通称 お天王さま と親しまれている八坂神社は元亀3年(1572)に牛頭天王社を勧請したのが始まり。7月14日に行われる お札まき は元禄時代から続く厄霊除け行事で横浜市指定の無形文化財。

神社のすぐ先、八坂神社前交差点の向う側に庚申講中が建てた「かまくら道石柱」(右)が据えられている。この交差点は鎌倉へ向かう戸塚道と東海道の追分。石柱側面に宝永七年(1710)の文字が読める。

浦賀奉行所跡を目指して出発。交差点から東に向かい柏尾川を越え、東海道線を地下道で横断し、県道203号に入って南下していく。

県道に入ったらさっそく寄り道を。盛徳寺山門横の「大銀杏」(左)は樹齢300年。秋には見事な紅葉だろう。
江戸時代、阿波の大名蜂須賀隆重の正室盛徳院が病気になり、盛徳寺の前身である尼寺養東院で養生したが帰らぬ人となり当寺に埋葬。後に寺名を盛徳寺と改称。

五分ほど歩いた先の「蔵田寺」(右)は元亀元年(1570)の創建と伝えられている。 地蔵堂横の小祠に納められている地蔵庚申には明暦2年(1656)の銘があり横浜市最古の庚申塔。

街道際に この辺では珍しい「出羽三山供養碑」(左)が建てられている。寛政10年(1798)の建立で道標を兼ねており「月山 湯殿山 羽黒山」の下に刻まれている方向は「右かまくら道」。

県道から分かれ数分歩いた先の石柱は「英勝寺への道標」(右)。行き先は「めんかけ如来 かさこひ太子 右かまくら 道」。親鸞聖人ゆかりの英勝寺への道標で天明8年(1787)の建立。

道標から数分歩いた三叉路向うの立派な覆堂に納まっているのは「下倉田延命地蔵」(左)。 堂内の説明書によると錫杖を握るこの地蔵尊は正徳3年(1713)の造立。

三叉路を右に曲がると ほんのわずかな区間だが「かまくら道旧道」(右)が残されている。

県道に合流したら数分先の交番前を左に曲がると長さ3.5mという「巨大なわらじ」(左)が。
かまくら道を往来する旅人のために草鞋を作っていた農家の青年達が大正時代初期に南谷戸の象徴として大わらじを作り松の木に吊るしたのが始まりだとか。

草鞋の下に「阿弥陀如来庚申塔」(右)が一基。貞享元年(1684)造立という古いもので青面金剛ではなく阿弥陀如来という比較的初期の庚申塔というのが珍しい。

十数分歩いた先の「正安寺」(左)は親鸞上人ゆかりの寺。 貞永元年(1232)、親鸞が一夜の宿をとり布教したことが縁で それまでの天台宗から浄土真宗に改め寺名も能満寺から正安寺に改称したという。

正安寺を出て坂道を上っていくと頂上付近に「かいがら坂」(右)と記された標柱が建てられている。かつては山肌に貝の化石が多数見られたそうでハマグリ坂とも貝殻坂とも呼ばれていた。

かいがら坂を下り しばらく歩くと街道際の一段高いところに「歳来寺閻魔堂」(左)が見える。由緒書きに「創建は延宝3年・・・・僧最岸により開基した」とある。閻魔堂だけが残された廃寺跡なのだろうか。

街道はその先の三叉路を左に曲がっていく。 数分先の街道際に鳥居があるがその奥は元和元年(1616)創建の「三嶋神社」(右)。参道の階段横に石塔が3基。庚申塔、出羽三山供養塔、二十三夜塔だが、この庚申塔も阿弥陀如来で寛文13年(1673)の造立。

京浜東北線のガード下を通って10分ほど歩くと左から合流してくる道があるが ここは「ぐみょうじ道(鎌倉街道中道)との追分」(左)。ここに建てられた「とつ加道道標」(右)に刻まれた道筋は「従是とつ加道」「従是ぐミやうじ道」。
「ぐミやうじ道」とは旧鎌倉街道中道のことで、ここで右へ曲がり奥州方面へ向かっていた。

道標隣の覆堂には延命地蔵が鎮座。

すぐ先の新橋(にいはし)の下を流れる川は「いたち川」(左)。鎌倉武士の「いざ出立」から「いでたち川⇒いたち川」 になったという。
この川は歌枕。歌っているのは兼好法師。
  いかにわが ちにしひより りのきて ぜだにねやを らはざるらん
 
環状4号笠間交差点を越えた先の街道際に鎮座してるのは「今泉村不動」(右)。台座は道標を兼ねており「今泉村不動江之道」と刻まれている。

5分ほど歩くと「笠間の庚申塔」(左)が道路際に4基。笠間村を守る魔除け・厄除けの庚申塔で、右から万延元年(1860)・文政6年(1823)・正徳4年(1714)・延宝8年(1680)の建立。

その先、左の路地を入ると見上げるような階段の上に「青木神社」(右)が鎮座。社伝によると建武2年(1335)に近藤出羽次郎清秀が現在地に建立し近藤一族と領内鎮護の社としたという。

階段下の駐車場を横断すると「石塔が3基」(左)。真ん中の石塔は道標になっており「今泉不動明王道 是ヨリ一里」と読める。今泉不動とは鎌倉の称名寺・今泉不動」ことだろう。

20分ほど歩くと交差点際に「離山富士見地蔵尊」(右)が鎮座。その昔、三つの独立した山があったことから 離れ山 と呼ばれたが、その一つ、地蔵山にあったので離山富士見地蔵尊。左側の石柱側面に 「旧鎌倉街道中ノ道」 と刻まれているが この辺りは住宅地内を通る旧鎌倉街道の道筋がよく残っている。

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