表紙へ戻る


千人同心街道  道中記

千人町拝島宿箱根ヶ崎宿 ⇒ 二本木宿扇町屋宿根岸宿高萩宿坂戸宿高坂宿松山宿吹上宿忍宿新郷宿川俣宿館林宿 ⇒ 天明宿

***第12宿新郷宿***
新郷宿は館林宿から忍宿へ向かうときだけの片継ぎという変則的な宿場であった。江戸時代後半頃から木綿と藍の
生産が盛んになり、4と9のつく日に行われる市では青縞木綿の取引で大変賑わったという。 
街道地図

 平成27年3月 27日

天満宮や稲荷神社に寄り道しながら田園風景広がる県道7号を歩いていると「羽生市」(左)の表示が。この表示のちょっと手前を右に入ると僅かな区間だが旧道がある。

しばらく歩いた先の左手に見える大きな建物は祥雲寺。慶長9年(1604)の創建と伝えられるが参道の突き当りにある「本堂」(右)は宝暦11年(1761)に再建されたもの。
祥雲寺には平安時代末期から鎌倉時代初期の作とされる木造聖観音立像があるということだが拝観できないのが残念。

祥雲寺のすぐ先は明治3年(1870)創業の「南陽醸造」(左)。家族だけで作り上げる銘酒は「花陽浴(はなあび)」。 生産量が少ないため早々に売り切れてしまうのだとか。

街道はこの先の交差点を左に曲がっていくのだが、曲がってすぐに見えた古民家は明治38年(1905)創業の「互福衣料」(右)。奥に見えるビルとの対比がなんとも妙な感じだ。

交差点を曲がった辺りから新郷宿に入るのだが それらしい雰囲気が感じられない。と思ったらバス停に「宿中」(左)と書かれているではないか。
ここに限らずバス停は昔からの地域名を頑なに守って表示してくれるのでありがたい。

バス停の辺りから見える巨木は「本陣椎の木」(右)。旧本陣須永家の庭にある大木で樹齢400年と云われるから江戸時代が始まった頃からここで旅人を眺めていたのだろう。

須永家は忍藩主の命で本陣を務めていた。本陣の建物は無くなっているが「本陣門」(左)が街道から一歩入ったところで見られる。

須永家本陣に水戸家第九代藩主・徳川斉昭が日光参詣の途中で休憩したが、これがきっかけで後に文化財となる「書」が次々と。その「文化財に関する説明書き」(右)が羽生市教育委員会によって設置されている。経緯はつぎの通りです。

ほどなく県道59号と交差するが交差点向うに見える鳥居は「愛宕神社」(左)。この神社は刀や鎧が出土したという愛宕塚古墳(径15m 高さ2mの円墳)の上に鎮座。

街道は神社脇を通っていくのだがその先に見えたのは「勘兵衛松並木」(右)。寛永5年(1628)、徳川家光が日光東照宮参詣の際、関東郡代の大河内金兵衛が家臣の勘兵衛に命じて植えさせた松並木。
その当時は600mほどの間に150本植えたそうだが現在残っているのは数本で大半はその後植えられたもの。

中ほどに昭和3年建立の「勘兵衛松碑」(左)がある。裏面が説明碑になっているのだがかなり読みずらい。
徳川三代将軍家光公日光社参ノ道路・・・・・・・・・

さらに先まで行くと明治時代の俳人、「川島奇北の句碑」(右)が。
   二歳駒買はれて来たり春渡船  奇北 
二歳駒はこの先の利根川を船で渡ってきたのだろう。

松並木が終わった辺りに「賽神社跡」(左)と記された説明板が建てられている。 それによると万延元年(1860)建立の賽神社石祠があったそうだ。  この先の利根川に川俣関所が設けられていたが、関所破りをしたものが処刑され この地に晒されたと伝わっている。その弔いのために建てられたものだろう。

その先のちょっと立派な覆堂の中に鎮座しているのは「庚申塔・如意輪観音・地蔵尊」(右)の三体。

街道の突き当りは利根川。ここに川俣関所が設けられ「入り鉄砲と出女」を厳しく取りしまっていた。関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ明治2年(1869)に廃止。関所のあった場所は川岸であったため今は河川改修で川底に。その近くに建てられているのは「川俣関所址碑」(左)と説明板。

「みちの駅羽生」に「川俣締切阯碑」(右)が建てられている。かつての利根川は東京湾に流れていたが文禄3年(1594)に流路を堤防で締切り本流を太平洋に流れるように付け替えが行われたのであった。

その川を渡るためには江戸時代は渡し舟であったが今は「昭和橋」(左)を歩いて対岸へ。下を流れているのは坂東太郎と異名を持つ「利根川」(右)。この辺りは河口から150km、思ったほどには川幅が広くない。

この橋を渡ると埼玉県から群馬県へ、江戸時代で言えば武蔵国から上野国へ。最初の宿場が川俣宿である。

前の宿場忍宿に戻る    次の宿場川俣宿へ    表紙へ戻る