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千人同心街道  道中記

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***第2宿箱根ヶ崎宿***
南北に走る千人同心街道と東西に走る青梅街道が交わる箱根ヶ崎は交通の要衝として大変な賑わいの宿場であった。
江戸時代後半には商業目的の人馬のみならず日光参拝や、富士講、御嶽講など観光目的の旅人でも賑わったという。
明治時代に入ると千人同心の日光勤番が廃止されたことや輸送形態が変わったことなどで次第に旅籠の数も減り、
今は静かな町並みとなってしまった。
街道地図

 平成27年1月23日

何かを期待して歩いた「わらつけ街道」であったが特に見所はなく八高線の東福生駅前まで来てしまった。

この先は「国道16号」(左)に合流して米軍横田基地の外周を歩くのだが これが結構長い。一時間弱歩いて到着した場所が横田基地の北東側。今日はフェンス越しに富士山がクッキリと見える。
あまりに綺麗だったので「思わず1枚」(右)。

横田基地内の消滅した街道を想像しながら旧道を歩き始めると また行き止まり。今度は新青梅街道が旧道の行き先を遮っている。


国道16号旧道の交差点まで戻り新青梅街道を横断。国道の向うに加藤神社が見えるが その後ろの塚は「加藤塚」(左)。
天正10年(1582)、武田氏の家臣であった加藤影忠は武田氏滅亡後、妻子と数名の家来を連れて当地まで逃げてきたがこの地で果てたという。その死を憐れんだ村民が塚を築き弔ったのだそうだ。

途切れた旧道まで戻り7~8分歩くと「旧箱根ヶ崎宿の町並み」(右)に入るが宿場時代の面影は余り感じられない。この辺りの150mほどは旧青梅街道と重なっている。

ほどなく青梅街道との交差点に到着。その角で存在感を示しているのが明治5年(1872)創業、「漢方の會田」(左)。漢方の店という雰囲気を盛り上げているのが店頭に飾られている薬研。

交差点の信号に旧日光街道と表示が。残堀川の先の交差点にはなんと日光街道と。日光街道と言えば五街道の一つ、日本橋から日光までの街道。ちょっと紛らわしいが、この街道も日光へ通じる道であった。

数分先の残堀川に架かる「大橋」(右)に慶応元年(1865)建立の大常夜灯があったが残念ながら関東大震災で倒壊。   コメント:倒壊した大常夜灯は昭和61(1986)年に火袋などを修復して狭山池畔に再建

橋を渡った先は緩やかな上り坂となるが ちょっと寄り道を。向かった先は 「狭山神社」(左)。創建年代は不詳だが源義家が奥州征伐の折りに筥の池(現狭山池)近くに陣営。箱根権現の霊夢を感じ当地に勧請したとされている。

街道に戻り緩い坂道を上ると三叉路の向う側に小さな祠が。 中に祀られているのは「庚申塔と地蔵尊」(右)。詳しいことは分からないが こんな立派な祠に納まっているとは幸せなことだ。

10分ほど歩いただろうか。街道左手の真新しい建物は「瑞穂町郷土資料館」(左)。情報収集と疲れた足を休めるのにちょうど良いので寄り道を。前庭に樹齢三百年というケヤキの大木が。今は冬枯れで殺風景だが芽吹きの頃は素晴らしい景色が見られることだろう。

資料館の隣は「耕心館」(右)。当地の豪農で醤油醸造業を営んでいた細渕家の建物を教育施設として開放。江戸時代末期に建てられた母屋や資料蔵、醤油醸造のための井戸などが見られる。

耕心館を出たすぐ先の十字路際に立派な「文字庚申塔」(左)が1基。文化15年(1818)の文字が読めるので二百年ほど前のもの。

ほどなく到着した広~い交差点の信号に富士山と記されている。ここは瑞穂町なのに、日光街道があり、富士山があり、狭山神社までありと変わった街道だ。コメント:読みは「ふじやま」です。

富士山から10分、参道の奥は「元狭山神社」(右)。 御祭神は4社を合祀した関係で、なんと木花開耶姫命をはじめとして16人もの神様という大世帯。参道脇の社務所がなかなか味がある。

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