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千人同心街道  道中記

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***第14宿館林宿***
館林城の城下町として発展した館林は千人同心街道の宿場町としても発展。
川俣宿を出て北上する千人同心街道は館林城江戸口門から城内に入り、佐野口門を出るまでの1.3kmほどの区間であった。
現在の館林市街に宿場時代の面影は少ないが一歩裏通りに入ると風情ある建物を見ることができる。
街道地図

 平成27年4月17日
  館林宿に入る前にちょっと寄り道を。

茂林寺入口交差点を右に曲がりかれこれ20分。土産物店の間を通って到着した場所は分福茶釜で有名な茂林寺。土産物店の先を左に曲がると応仁2年(1468)に建立されたという「総門」(左)、通称・黒門が出迎えてくれる。

総門を入るとその向こうに見える茅葺の建物は元禄7年(1694)の建立という「山門」(右)。総門と山門の間の参道にずらーっと並んで参拝者を眺めているのは狸。
分福茶釜伝説はこちらを

茂林寺の開山は応永33年(1426)に大林正通が当地に小庵を結んだのが始まり。

正面が本堂だが、この「本堂」(左)も総門と同じ応仁2年の建立で享保12年(1727)に改築を行っている。総門・本堂ともに500年以上前の建築物だが文化財に指定されていないのが不思議。山門を入った左手の「聖観音像」(右)は元禄3年(1690)に建立されたもので江戸神田鍋町の太田久右衛門が鋳造したものだという。

茂林寺には一つだけ文化財がある。本堂の前にある応永33年(1426)に植えられたとされる樹齢580年以上のラカンマキ。こちらは群馬県指定の天然記念物。

街道に戻り諏訪町の三叉路を右に曲がると、かつては1km以上に渡って杉並木が続いていたということだが今はその痕跡すら感じられない。

街道から一歩奥へ入った「遍照寺」(左)に寄り道を。新田氏の祖・新田義重が建久9年(1198)に創建したという遍照寺は江戸時代には館林城主であった榊原康政の祈願所。山門を入った正面の本堂は寛延3年(1760)の建立。

館林の市街地に入ると街並みがスッキリと見える。何故だろうかと思ったら「電柱と電線が全く無い」(右)のです。
いいね~この景色。

館林駅入口交差点まで来ると、そのちょっと手前にケヅカ書店があるが この辺りは「館林城江戸口御門跡」(左)。堀と石垣を備えた立派な櫓門があり旅人はこの門を通って宿場に入って行った。

徳川家康の遺骸は元和3年(1617)に この櫓門を通って日光東照宮へ向かっている。

ケヅカ書店の裏にある「初引稲荷神社」(右)は館林城の創建に深く関係する神社。
館林城は別名「尾曳城」とも呼ばれているが次のような伝説が。

大袋城主・赤井照光が悪童にいじめられている子キツネを助けたところ夕刻に稲荷新左衛門という老人が現れ、この城は守りに弱いので他に
移ったほうが良い 、と。 七夕の宵のことだった。一匹の老キツネが現れ城に適した場所に案内するという。
老キツネは自分の尾を引きながら
一晩かかって城の縄張りを示したのであった。 その上で城の守護神になることを約束。 
照光はその通りに城を築き、城の鬼門方向に
「尾曳稲荷神社」を、最初に曳いた場所に「初引稲荷神社」を、
曳き終えた場所に「夜明稲荷神社」を祀ったのだった。室町時代の話である。 

江戸口御門を入ると館林宿だが館林城を素通りする分けには行かない。ちょっと遠いが寄り道を。

館林城跡へ行く途中に徳川家と係わりの深い「青龍神社」(左)がある。話は徳川綱吉が館林城の城主だった頃のこと。
福寿院(現在は廃寺)の境内から突然清水が噴き上がり中から女官姿の青龍権現が現れたという。この話を聞いた綱吉の母・桂昌院が井戸のかたわらに青龍権現社を建立したのだとか。

入口に葵の御紋があるが五代将軍となった綱吉は10石の朱印地を寄進。ここで寄り道のさらに寄り道を。路地を入った辺りはかつて魚屋が多かったことから「肴町」(右)。

肴町の中頃に見える建物は 「旧二業見番組合事務所」(左)。 芸妓屋業と料亭業を取り仕切る事務所として昭和13年(1938)に建てられたもの。艶っぽさを感じるのは芸者さんの稽古場もあったからか。

突き当りの建物は江戸時代中頃に近江から移り住み、造り酒屋を営んでいた屋号・和泉屋。現在は「外池商店」(右)として酒店を営んでいる。因みにこの店舗は昭和4年(1929)に建てられたもの。

外池商店の前を右に曲がってもう少し寄り道を。

道なりに数分、「鷹匠町長屋門」(左)は明治期の豪農松沢家の長屋門に使われていた材木を再利用して平成21年(2009)に新築。この辺りの町名は鷹匠が居住していたことから鷹匠町という。

長屋門の前を右に曲がった先の長屋門は「武家屋敷武鷹館」(右)。内部を見学できるのは土日祝だけだが塀越しに見えたのは江戸時代後半に建てられたという旧館林藩士の家

鷹匠町ではちょっとだけ江戸時代を感じることができたかな。

次に向かった先は館林城跡。

館林城は本丸・二の丸・三の丸から構成されていたが三の丸への入口に「土橋門」(左)が復元されている。土橋門を入ると井戸や塀も復元されており少しだけ城の雰囲気が

二の丸・三の丸跡は市役所や図書館などが建てられ土塁跡などを見なければ城跡という雰囲気は無い。館林城の大きさを伺い知ることができるのは広々とした芝生広場の「本丸跡」(右)。

本丸跡の一部に「向井千秋記念子供科学館」が建てられているが、その裏に「本丸土塁」(左)がかなりしっかりした形で残っている。綱吉が城主であった時代、ここには三重の櫓(天守)があった。

土塁のそばに鎮座するのは「八幡宮」(右)。 この神社は城の守護神として八幡郭に奉られていたが尾曳稲荷神社に合祀。明治の終わりごろ現在地に移され再び八幡宮に。

本丸跡の向かい側にある洋館は 「旧上毛モスリン事務所」(左) で 明治41年(1908)から43年(1910)にかけて二の丸跡に建てられた。昭和54年(1979)に現在地へ移転して一般公開。

同じ敷地の奥にある茅葺の民家は明治時代の自然主義文学を代表する作家「田山花袋の旧居」(右)。田山が7歳から14歳まで過ごした家。市内城町にあった建物を解体・移築したもの。

寄り道で思わぬ時間を過ごしてしまったが街道に戻ったらすぐ先を左に入って再び寄り道を。小さな小さな出世稲荷神社があったが鳥居だけは大出世したようでひときわ背が高い。

その先の「大道寺」(左)には館林藩士の生田萬の祖父や田山花袋に和算を教えた戸泉鋼作などの墓がある。

さらに先へ進み館林駅近くまで来ると善導寺跡に小さな公園があるが、ここの東屋の中にあるのは「竜の井」(左)。
この井戸は青龍の井戸と繋がっているのだとか。そして次のような伝説が。
善導寺で行われた説教を熱心に聴く一人の美しい女性。実は城沼に住む龍神の妻だった。その女性は説教のおかげで迷いから救われ そのお礼にお寺を守りたいと井戸の中に姿を消したという。

街道に戻り次の路地を左に入った奥が「青梅神社」(左)、青梅天満宮とも称されている。菅原道真が大宰府に左遷させられたとき、4つの梅の実を枝に刺し投げたところ日本各地に散らばったが その一カ所が青梅神社であった。

館林宿には脇本陣が無く本陣が一軒だけであった。「本陣があった場所」(右)は現在の本町2丁目交差点を渡った右側辺りと云われているが石碑や表示が無いため詳細は分からない。

交差点を左に曲がった先の応声寺に「館林城の鐘」(左)がある。徳川綱吉が城下へ時を知らせるために造らせた鐘だが綱吉の子・徳松丸が死去し廃藩となったとき応声寺に下げ渡された。

街道に戻ったらもう少し寄り道を。次の交差点を左に曲がって向かった先は海鼠壁が美しい「龍神酒造」(右)。慶長2年(1597)、尾瀬の雪解け水が堆積してできた龍神の井戸を掘り当てたのが蔵の始まり。
伝統の日本酒造りで絞り出された吟醸酒は「尾瀬の雪解け」。  呑みたいね~

街道から左へちょっと入った奥の五宝寺に「不動まんだら板碑」(左)なる県指定重要文化財があるので寄り道を。
この板碑は応仁5年(1297)に造立されたもので板碑に不動曼荼羅を刻む例は少なく大変珍しい碑だ。

その先に見えるのは館林の鎮守・長良神社。創建年代は不明だが館林城を築いた赤井照光が当地に勧請したと伝わっている。

街道に戻り坂道を下った先の交差点付近は「佐野口門跡」(左)。綱吉時代には堀があり石垣が築かれ立派な櫓門があったが今は大規模な道路工事が行われその雰囲気は全くない。

街道は交差点を渡った先の三叉路を右へ。その根本部分に「道標が2基」(右)。右側は馬頭観音道標で刻まれている行き先は「右 さの とちぎ 道」と。左道標には「らいでん道」とある。

佐野口門を出て三叉路を右に進むと その先は遥か彼方まで真っ直ぐ。

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