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千人同心街道  道中記

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***第13宿川俣宿***
川俣宿は利根川の渡船場から発展した宿場で、寛永20年(1643)頃には宿駅として成立している。また利根川水運
を利用した年貢米や木材の積み出しを行う河岸もあったことから大変賑わった宿場であった。 しかし、鉄道の開通
によりこれらの機能が終わった後は静かな町並みに変わっている。
街道地図

平成27年3月 27日

新郷宿を出てかれこれ20分ほどで利根川の堤防に到着。かつては渡し舟だったが今は「昭和橋」(左)で対岸へ。
橋を渡り終わったら堤防の側道を下ると川俣宿の入口。

下りきった左側のお屋敷が「川俣宿旧本陣塩谷家」(右)。
本陣建物は無くなっているが、どっしりした屋敷門と白壁の塀がかつての繁栄をうかがわせる。

川俣宿は利根川の渡船場から真っ直ぐ北に伸びた街道の両側に町並みを形成していたが今もそれは変わっていない。車道が行き止まりのため車が通らないのでのんびりと歩けるのが嬉しい。

旧本陣の前を右に入った奥は「真如院」(右)。ここは明治33年(1900)に起きた川俣事件で捕縛された被害民が連行された場所であり、 負傷した農民を介護した場所。
 

街道に戻ると すぐ先に真新しい鳥居がそびえているが その奥は「粟島神社」(左)。狛犬に特徴があるのだそうだが うっかり見落としてしまったナー。

街道に戻り5~6分、小さな公園に川俣事件記念碑が建てられている。川俣事件の詳細はこちらへ。
明治33年(1900)、足尾鉱毒の被害農民2500余名が足尾銅山の操業停止を求めて上京請願に向かう途中、上宿橋(現邑楽用水架橋)で警官隊と衝突。その場所に建てられているのは「川俣事件衝突の地碑」(右)。

川俣宿を出た街道は国道122号を斜めに横断、その先も真っ直ぐな道が続いている。大佐貫集落まで来たらちょっと寄り道を。

向かった先は東光寺と「長良神社」(左)。ともに無住の寺と神社だが、この辺りは平安末期から南北朝時代までこの地で繁栄した佐貫氏の館があった場所だと云われている。

街道に戻り4~5分、道路際に「阿弥陀三尊板碑」(右)と記された標柱が。ところが肝心の板碑が見つからんのです。
探し当てたのが秋野様宅の裏庭。家人に事情を説明して見せてもらいました。 鎌倉時代に造立された板碑だが保存状態が大変良い。秋野様の話では秩父石が使われているからだろうとのこと。

板碑のすぐ先、矢島公民館脇に多数の「石仏・石塔」(左)があるが道路工事などの関係でここに集められたのだろうか。

そのすぐ裏、共同墓地の一角にある「地蔵堂」(右)に安置されているのは宝永5年(1708)に開眼されたという地蔵菩薩。立派な御堂に安置され幸せなお地蔵さんだ。

川俣宿のある明和町には長良神社が多いが街道沿いのこの神社も「長良神社」(左)。

長良神社のちょっと先、街道際に松の木が一本。その下に見える石塔は「富士山供養塔」(右)。次のような言伝えが。
その昔、富士参拝に行く旅人がここで力尽きて倒れ、田んぼの水面に映った富士を見て 「富士山が見えた」 と言って落命。哀れんだ村人が供養塔を建てたという。

街道はこの先で一旦国道122号を歩くことになるが谷田川に架かる青柳橋を渡り館林市に入ったら再び旧道へ。

旧道に入ったら「龍積寺」(左)に寄り道を。ここは永享年間(1429~41)に赤井勝元によって青柳城が築かれた場所。 赤井氏は後に館林城を築きそちらへ移ったと云われているが定かではない。

山門左側に「麻疹地蔵」(右)と呼ばれる地蔵尊が鎮座しているが、この地蔵様は元々は「首切り地蔵」という物騒な名前で呼ばれていた。近くの谷田川河畔に館林藩の青柳刑場があり そこに鎮座していたのがこの地蔵尊。明治後半に龍積寺に移され いつの頃からか麻疹(はしか)地蔵に。

次に向かう宿場は館林宿。その前にちょっと遠いが分福茶釜の寺に寄り道を。

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