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木下街道  道中記

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A八幡宿やわたじゅく  街道地図

八幡宿は成田街道と木下(きおろし)街道が交わる宿場であったが すぐ隣に成田街道最大の船橋宿が
あったことから宿場町としての発展はなく小さな宿場で終わっている。八幡 という地名は平安時代に
創建されたという葛飾八幡宮にちなんでいる。

 平成25年1月16日
 行徳橋の冷たい風で身がキリッと締まったようだ。次ぎに目指すは八幡宿。

行徳橋を渡ったら左に曲がり堤防道を下って旧道へ復帰。数分歩くと「雙輪寺(そうりんじ)(左)。
ここは行徳三十三観音札所の第9番、と思ったら第10番でもあった。昭和16年(1941)、江戸川放水路建設のために9番竜巌寺と10番福王寺が合併し雙輪寺に。

その先5分ほど歩いた稲荷神社は正面から見た拝殿はごく普通の神社。しかし裏へ回ると「本殿」(右)に見事な彫刻が。

稲荷神社前から道なりに数分、三叉路の向こうは「一本松と延命地蔵」(左)。残念ながら松は切り株だけ。
かつての行徳街道は真っ直ぐに大和田を通って成田街道に合流したが、伊奈忠次が上総道の改修を行った際、北上して成田街道に合流する新道を造りその分岐点に松を植えたのが一本松の由来だとか。

一本松から京葉道路の高架下を通り数分、鄙びた神社は応神天皇を祭神とする「甲大神社(かぶとじんじゃ)(右)。歴史は大変に古く永延2年(988)に当地に鎮座したという。  

この先は伊奈備前守忠次が作った新道を通って成田街道に合流し八幡宿へと入っていく。ほどなく見えたのは葛飾八幡宮の大鳥居

八幡村の地名の由来となった葛飾八幡宮は大変歴史のある神社で寛平年間(887〜898)に宇多天皇の勅願により建立。
その八幡宮の「随神門」(左)は明治以前まで仁王像が置かれた仁王門であった。明治維新の廃仏毀釈で別当寺の法漸寺が廃寺となり仁王像を撤去。左右大臣を配して随神門となった。

本殿右手の国指定天然記念物「千本公孫樹(せんぼんいちょう)(右)は圧巻。樹齢1200年という巨樹だが、江戸名所図会によると8月15日の祭礼に、うつろの中の蛇が音楽を奏でるのだとか。 

街道に戻ると道路向こう側に「不知八幡森(しらずやわたのもり)(左)が見える。江戸時代の紀行文に「八幡の薮知らず」として紹介されているが中に入ったら出てこられないという。 「そんなばかな 」と言って入ったのが水戸黄門。ところが魑魅魍魎に襲われやっとのことで逃げ帰ったとか。

ほどなく渡る川は万葉集にも詠われた「真間(まま)川」(左)で、この上流には絶世の美女であったため多くの男性に求婚され「我が身は一つ」と入水自殺した手児奈姫伝説が残されている。

真間川から10分ほど歩くといよいよ「木下街道」(左)に入るのだが交差点の向こう側に『古民家が見えるはず』・・だが見えない。見たかったのは初代が相撲取りから実業家に転進し成功した味噌醸造業・中村家の邸宅だが現在は修復作業中で見ることはできない。(右写真の右側、工事用囲いの中)

二代目中村勝五郎は若き芸術家を応援しており「事務所」(右)の2階に若き頃の東山魁夷を住まわせていたこともあった。東山魁夷初期の作品『私の窓』はその2階から描いたものだとか。

木下街道に入ってすぐの左奥に「高石神社」(左)の鳥居が見える。由緒書きを読むと『祭神は神巧(しんぐう)皇后』となっているが あまり見かけない祭神だ。

ほどなく深町坂の上り坂。木下街道には東葛人車鉄道が敷かれていたが この坂はさすがに人力では無理で、馬二頭引きで坂上り。坂を上り切ったところの瀟洒な建物は「東山魁夷記念館」(右)。東山魁夷は戦後すぐに中村勝五郎家の事務所2階に間借りしたが、その後、新居を構え生涯を過ごした地が今の記念館がある場所。

しばらく歩くと右手に中山競馬場が見えてくるが、その前の交差点に『北方十字路』(左)の表示が。
きたかた?・・・ ではなく『ぼっけ』と読む。

北方十字路の先に鎮座するのは赤い鳥居が印象的な「白幡神社」(右)。境内の一角にある「道標」(右)に刻まれた文字は「従是左中山法華経寺道」。

白幡神社を出て十数分、JR船橋法典駅を過ぎ5分ほど歩いた先の階段上の御堂は「七面堂」(左)。
再建記念碑によると「開創の年月は未詳なれど天和貞亨(1683前後)の頃、妙達と云う尼僧 今の処に草庵結び・・」とある。が、残念ながら七面大明神の記述は無い。

さらに10分ほど歩いた先の「藤原観音堂」(右)は宮本武蔵が修行中に住んでいた場所(吉川英治・宮本武蔵より)に建てられているのだとか。安置されている観音様は身代わり観音と呼ばれ鎌倉時代の作だという。
 コメント:吉川英治の宮本武蔵 『空の巻・通夜童子』 の書き出しに 『そこは下総国行徳村からざっと一里程ある寒村だった。・・・・・里の者は法典ケ原といっている』 とあるが、その法典ケ原がこの辺り。

藤原観音堂から4〜5分の「藤原神明社」(左)は本行徳の神明神社を分祀した神社。メタボな狛犬が可愛らしい。
そういえば、行徳・神明神社の狛犬もかなりメタボだったっけ。

東武野田線の踏切りを渡った右側の階段を上ったところが馬込天満宮なのだが鳥居の向こうに「冠木門」(右)があるのが珍しい。

八幡宿を出てあちらこちら見ながらからかれこれ2時間、もう少し歩くと次ぎの宿場・鎌ヶ谷宿である。

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