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木下街道  道中記

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D大森宿おおもりじゅく   街道地図

大森宿は山城国淀藩に移封となった稲葉氏の飛び地で、陣屋が置かれていた。鮮魚輸送の継ぎ場という
機能を持っていた大森宿だが宿場としては小さなもので、今の大森には当時の面影は感じられない。

 平成25年2月16日

白井宿を出てかれこれ40〜50分、県道59号と交わった向こう側に石塔群が見える。真ん中の大きな 南無阿弥陀仏と刻まれた石塔は「徳本上人念仏塔」(左)。この念仏塔は道標にもなっており側面に刻まれた道筋は「ふさむらみち 大も里むらみち」。

江戸時代の木下街道はこの先から消滅状態。千葉ニュータウンという広大な住宅団地造成のため、いともあっさりと歴史ある古道を潰してしまったのだ。しばらくは「住宅団地の中」(右)をテクテクと。

ニュータウンの中を1時間弱ほど歩き県道61号を横断すると やっと木下街道旧道に復帰。
旧道に入って数分、街道際に「多数の庚申塔が」(左)。ここは、かつて龍泉寺があった場所だが今は庚申塔と集会所裏の墓地だけが残されている。

その先10分ほど歩いた所の鳥居は「八幡神社」(右)。ところが鳥居の奥に見えたのは集会所。大胆にも鳥居と社殿の間に集会所を建ててしまったという、なんと不心得なことをしたものだ。

木下街道は八幡神社の先で左に曲がっていくのだが その先はUR都市機構の大規模開発で再び消滅状態。 URに『』。 
造成地の柵に沿って15〜6分歩くと左に曲がる細い土道があるので ここを入ると旧道に復帰できる。

旧道は鹿黒集落の中を通っている。ほどなく十字路に差し掛かるが十字路向こうの消防小屋脇に見えるのは多数の石仏
手前の右側に「道標」(左)が一本。四面に行き先が刻まれているが写真の反対側に刻まれた文字は「東 大もり 木下道」と。ならば東へ。後ろのフェンス内側には馬頭観音や石仏なども。

ほどなく県道4号に合流し坂を下って鹿黒橋を渡るのだが その手前に青面金剛などの「庚申塔4基」(右)。

鹿黒橋を渡った街道は緩く右へ曲がりながら大森坂を上っていく。坂を上りきった先にバス停大森坂上があるが、この辺りが大森宿の中心地。しかし今は往時の面影は感じられない。

ここでちょっと寄り道を。交差点を左に入り10分ほど歩いた先に鎮座しているのは大森鳥見神社。ぐるりに彫刻が施された「本殿」(左)が素晴らしい。由緒書きによると文久3年(1863)の再建。 大鳥居は元禄12年(1699)の建立、手水石は嘉永2年(1849)の奉納、神輿は寛政6年(1794)作、とそれぞれに歴史の重みが。

鳥見神社手前を左に入った先は慈覚大師によって承和年中(834〜848)に創建されたという長楽寺。境内左手高台の「梵鐘」(右)は応安2年(1369)に寄進されたもので千葉県指定の文化財。

街道に戻ったら坂を下っていくのだが その途中で右に入り高台まで上っていくと「淀藩大森陣屋跡」(左)が見られる。
佐倉藩主だった稲葉氏が享保8年(1728)に山城国淀藩に移封となったが、ここは稲葉氏の管轄地として残り 陣屋が置かれていたのだった。残念ながら表示や説明板の類は無い。

街道に戻り坂を下っていくと歩道に鎮座していたのは「馬頭観音」(右)。邪魔だ と言わずに残してくれたのが嬉しいね。

坂を下り国道356号を横断すると、今回の旅の到着点である木下河岸が近い。

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