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①川越から高坂まで
②高坂から奈良梨まで
③奈良梨から小前田まで
④小前田から児玉まで
⑤児玉から藤岡まで
③奈良梨から小前田まで
児玉往還の旅 第3回は小川町奈良梨から深谷市小前田まで。旧奈良梨宿の八和田神社脇から出発し
旧今市宿、旧赤浜宿を通って荒川に架かる花園橋を渡り、旧小前田宿までの約11kmほど。どこもそうだが
旧宿場跡に昔の面影は少ない。 だが、長閑な田園風景の中を路傍の石仏を探しながら歩くのが楽しみだ。
街道地図
平成29年3月17日
奈良梨交差点から北へ200mほど歩くと普賢寺・萬福寺の看板がある
「左へ入る道が旧道」
(左)。この辺りが奈良梨宿があった場所。
旧道へ入ると早速
「馬頭尊」
(右)が道端に。この馬頭尊は比較的新しく大正5年
(1916)
の造立。この先右側に萬福寺があり左側の坂道を上ると普賢寺。
普賢寺の本堂左側に
「板碑」
(左)が一基。この阿弥陀三尊板碑は明徳元年
(1390)
に建立されたもので、種字
(しゅじ)
の下に光明真言が刻まれている。
普賢寺を出ると その先は見事な
「石積みの切り通し」
(右)。よくこれだけの玉石を並べたね~ 切通しを過ぎると長閑な田舎道。日頃のストレスが一気に吹き飛んでしまう。
旧街道を演出してくれるのは路傍の石仏達。
独特の御姿が魅力の如意輪観音。
墓地の端で街道を向いています。
一段高くなった奥に文字庚申塔がある。
大きな石塔は寛政5年(1793)の馬頭観音、
小さい方は文字庚申塔。
長閑な田舎道を抜けると一気に視界が開けて、
彼方に秩父連山が望める。
奈良梨から能増に入ると街道右手、やや奥まった所に
「球形石造物」
(左)が。甲州街道栗原宿辺りで球形道祖神をよく見かけたが それではなさそう。台座に「○○家・・・・湮滅ヲ恐レ石ヲ建テ不朽ニ傳フ・・・・昭和7年
(1932)
」とある。この丸石はちょっと謎めいている。
5分ほど歩くと街道に面した墓地の端に
「2体の地蔵尊と庚申塔」
(右)、その他にも回国供養塔など多数の石造物も。
能増から高見に入ると丁字路際に
「四津山神社入口標柱」
(左)が建てられているが神社は1kmほど先の四津山山頂。 火防の神として信仰厚く信者は関八州に及んでいた。
四津山は
「高見城跡」
(右)として埼玉県指定史跡。中世の典型的な山城で鎌倉街道を押さえる軍事上の要所であった。
神社入口標柱を通り過ぎて数分、歩道際に
「馬?大神」
(左)と刻まれた小さな石塔がある。北海道には馬頭大神の石塔が多いそうだが ここは埼玉県。ちょっと気になる石塔だ。
小川町から寄居町に入る境界線のところに
「庚申塔が2基」
(右)。この場所は一里塚跡と云われているが定かではない。この先で旧道は真っ直ぐ山へ上って行ったが今は消滅。ここは大きく左へ曲がる県道を通って今市宿へ。
緩い坂を上った先の交差点際に
「今市地蔵堂」
(左)があるが先ほど消滅した旧道はここに繋がっていた。地蔵堂に鎮座している
木造地蔵菩薩
は高さ3mという大きなもの。その昔、六体の地蔵菩薩を鎌倉へ運んでいたが この地へ差し掛かると一体が動かなくなってしまったので仕方なくここへ安置したのだとか。
地蔵堂から先は真っ直ぐの道が続いているが、この辺りは
「旧今市宿」
(右)。天正時代
(1573~91)
にはすでに宿駅が設置されていたそうだが江戸時代に入ると一層の賑わいだったという。
街道から一歩左へ入った奥の寺院は幕府の大老柳沢吉保の祖父・柳沢信俊が開基・創立した高蔵寺。
その
「柳沢信峻夫妻の墓」
(左)が本堂裏の墓地の一角にある。墓石と左右の石灯篭は吉保とその子吉里が百回忌に改建したもので その旨が墓石に刻まれている。
高蔵寺から畑の向うに見える杜は
「兒泉
(こいずみ)
神社」
(右)。この神社の西側に掘割状の廃道があるが この道は鎌倉街道上道と云われている。
今市地蔵堂前から西に延びる道(児玉街道)が鎌倉街道上道だという説もある。
街道に戻り5分ほど歩くと歩道際の標柱に
「高見原古戦場跡」
(左)と記されている。奥に見える祠は慰霊首塚稲荷。長亨年中
(1487~89)
の乱の高見原合戦のことで、山内上杉氏と扇谷上杉氏が長享2年
(1488)
と延徳3年
(1491)
に小川町から寄居町今市付近で合戦を繰り広げたと伝えられている。
更に5分ほど歩いた
薬師堂
横の石塔群は寛政2年
(1790)
の
「百万遍供養塔など」
(右)と1体の如意輪観音。
すぐ先の交差点を左から右へ横切る道が
兒泉神社
西側を通っていた鎌倉街道上道で、高崎を通って碓氷峠へ。
数分先に
「庚申塔が3基」
(左)並んでいるが、造立年は文化7年
(1810)
、文化元年
(1804)
、享保7年
(1722)
。児玉往還は さらに4~5分歩いた先から長山道と呼ばれる旧道に入り男衾
(おぶすま)
小・中学校の裏を通っていく。
男衾 の地名は遠く奈良時代から使われており 正倉院に伝わる白布
(麻布)
の墨書銘に「武蔵国男衾郡狩倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端、天平六年十一月』と記されている。
15分ほど歩くと県道81号
(熊谷寄居線)
に合流するが その手前にある
「石塔群」
(右)はちょっと荒れた感じ。
県道に合流してすぐの
「出雲乃伊波比
(いずものいわい)
神社」
(左)は創建年代不詳だが源頼義が奥州征討のとき戦勝祈願を行い その際 白籏八幡に改称したという。明治33年
(1900)
に旧名である
出雲乃伊波比神社
に復名したが地元では今でも八幡様と。
神社前から真っ直ぐな道が続くが ここは
「旧赤浜宿」
(右)。元々はこの先の荒川沿いにあったが度重なる洪水の被害に遭いこの高台に移転。赤浜の渡しの管理を行っていた。
旧道は旧赤浜宿の終わり辺り
(旧赤浜宿に入って最初の信号交差点)
から右に曲がって荒川に下って行く。
右に曲がって数分、最初の右に曲がる路地を入ると畑の向こうに樹高12mという見事な樹形の
「大納言椿」
(左)が。駿河大納言忠長
(ニ代将軍秀忠の三男・駿河城主)
が蟄居を命じられ高崎城へ向かう途中、この地で休憩した折り、椿の花の落ちるのを見て「自分もこうなるのか」と嘆いたという。
大納言椿と反対側の常楽寺の境内に入ると天を圧する見事な
「白モクレン」
(右)が。満開にはちょっと早かったが近所の人によると満開のときは木全体が真っ白になりそれはそれは見事だという。
街道に戻り
「地光坂」
(左)を下ると赤浜の渡し跡に出るはず、だったが藪に覆われ川に近づくことができない。さらに問題は荒川を花園橋で渡る予定であったが橋は見上げるような高い所。どこから橋に入れるのやら。地元の人に聞きながら かなり迂回してやっと橋上に。
地光坂を下った辺りに渡し場があっただろうと想像して花園橋から撮影した
「赤浜の渡し跡付近」
が右の写真。
コメント:鎌倉街道上道の赤浜の渡しはもう少し下流の荒川橋付近
。
花園橋を渡り100mほど歩くと
「粗堂」
(左)の中に
川端の宝篋印塔
が納められている。付近の金井家が江戸時代に井戸を掘った際に出土したもので延文3年
(1358)
の銘がある。
ここから荒川の土手沿いの道に戻り、しばらく歩くと
民家の納屋裏手
に
「荒川の板石塔婆」
(右)が多数見られる。鎌倉時代から室町時代にかけて造立されたものでこれだけまとまっているのは珍しい。
コメント:川田粂太郎翁頌徳碑が見えたら2軒先の納屋の裏手にある。
数分歩くと荒川沿いから離れていくが石仏などが幾つか見られる。
十字路脇の墓地の一角に回国供養塔が
据えられている。
十字路の反対側に多数の石仏が
あるが、殺生河原の様な景色だ。
次の十字路を越えた先に大黒天と
庚申塔がある。
大黒天から数分ほど歩くと国道140号と交差するがここの横断は極めて危険 ちょっと戻って地下道を歩くのが無難。国道を横断した先は旧道が消滅常態だが5分ほど歩くと旧道が復活しているのでその旧道に入って数分、右奥に見えた小山は
「富士塚」
(左)。傍らの石碑に「鐘登山三十七度大願成就」とあり「小渕鐘行鏡山」の文字が見えるので富士講だと思うが詳しいことは分からない。
国道140号旧道
(秩父往還)
に合流し数分、右奥の
「長善寺」
(右) は鉢形城主・北条氏邦の三男光福丸の菩提寺。創建は慶長5年
(1600)
とされているが現本堂は寛保3年
(1743)
に再建されたもの。
長善寺の参道に多数の庚申塔が並んでいるが その中に
「赤く塗られた庚申塔」
(左)が。庚申に願かけを行い願いがかなったらそのお礼に紅殻を塗る風習の名残りが今も続いているようだ。
多数の石仏・石塔の中に
「四国西国供養塔道標」
(右)があった。「右 大山 川ごえ ちちぶ」「左 くまがや」とあるが元々は旧小前田宿上町の街道沿いにあったもの。
もう少し先を右へ曲がると秩父鉄道小前田駅があるので今回の街道歩きはここまで。
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