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児玉往還   道中記

 ①川越から高坂まで  ②高坂から奈良梨まで  ③奈良梨から小前田まで  ④小前田から児玉まで  ⑤児玉から群馬藤岡まで

④小前田から児玉まで 街道地図

 平成29年3月30日
児玉往還の旅、4回目は深谷市小前田から本庄市児玉まで。 秩父鉄道の踏切を渡りしばらく歩くと鎌倉街道上道と重なり、用土、白石(美里町)、広木を経て児玉に至る。
この区間は旧道を歩く事が多いので路傍に庚申塔や馬頭観音が多く残っており これら石仏を探すだけでも飽きることが無い。また、途中には万葉歌碑や芭蕉句碑があり、
これまでとはちょっと違う街道歩きが楽しめる。

国道140号を西進してきた街道は小前田駅入り口丁字路の先から右へ曲がって「旧道」(左)に入っていくのだが この辺りは民家が少なく旧道の雰囲気が。

ほどなく「小前田諏訪神社」(右)の前。 この神社は大変歴史が古く、村上天皇の応和年間(961~64)に奥羽地方より移住してきた人達が諏訪神社を祀ったのが始まり。

 諏訪神社を出ると幾つかの石塔が見られるのでまとめて紹介。
秩父鉄道の踏切手前、道路際に小さな石塔が2基。
霊位と刻まれているので墓石だが、忘れ去られた
ような扱いが痛々しい。
踏切りを渡ったすぐ先の墓地に街道側を
向いた馬頭観世音が1基。

さらに数分歩くとブロック塀の内側に、
庚申塔が4基。 傷みが激しいが、
嘉永2年(1790)の銘が読めるものも。
原宿の交差点向う側に道標がある。
行き先は「右 川越 大山 小川三里」
「左 日光 妻沼 深谷三里」とある。

原宿交差点から数分、真新しい鳥居の奥は「原宿八幡神社」(左)。 由緒が無いため詳しいことは分からないが神社前の児玉往還は元々は鎌倉街道上道。鎌倉へ行き来した武士達が参拝したことだろう。
鳥居横に鎌倉街道上道の道すじ説明板が設置されている。

神社裏手の常光寺は鎌倉時代の創建と伝えられ八幡神社の別当寺でもあった。墓地入口に多数の石仏がまとめられているが如意輪観音の半跏思惟の御姿がなんとも味わい深い。

常光寺を出て集落を通り過ぎるとしばらくは田園風景広がる田舎道。石仏を探しながら長閑な道をテクテクと。
歩道際の背の高い石柱に刻まれた文字は
「脇往還川越道 用土邑」。隣の大黒天も道標だが
「右** 左**」だけ読める。
街道際に庚申塔が2基。文字庚申塔は
文化6年(1809)の造立。
ちょっと先の左側、納屋の前にある
石塔は馬頭観音。
 R八高線の鎌倉街道踏切り。1時間に
1本という少なさが利用者泣かせだ。
踏切りを渡った先、用土五区公会堂前の
小さな石柱は 「用土村道路元標」 。
更に数分歩くと応和年間(961~964)創建
という古社、諏訪神社が鎮座している。
用土四区公会堂前に寛政12年(1800)
造立の庚申塔などと共に如意輪観音も。
公会堂の右側には大黒天とともに、
ちょっと珍しい馬頭大士の石塔がある。

深谷市から美里町に入って10分、杉ならぬ桧並木の参道奥に見えるのは普門寺。

本堂横の「四十九院本尊石仏」(左)は檀徒の寄進により元文4年(1739)に造立されたもの。足利の浄因寺にも四十九院石仏はあるそうだが49体全部揃い しかも保存状態が大変良いのはここだけ。

普門寺を出て10分ほど歩くと造り酒屋の「横関酒造」(右)がある。 鮮度重視で蔵元直売が売りの 天仁 はすっきりした辛口の純米酒。酒蔵の酒粕を使った瓜の奈良漬けがなかなか美味い。

横関酒造先の国道254号を横断し旧道に入ると鄙びた雰囲気に代わっていくが これがいいんだな~  ここにも旧道の定番が。

旧道に入って4~5分、突き当りに見えた
のは寛政12年(1800)の庚申塔。
突き当りを右に曲がると、その先にも
寛政12年(1800)の庚申塔がある。
庚申塔の前を左に曲がり雷坂を上ると、
雷電神社の裏に道祖神が。
雷電神社の50mほど先、右手の塚上に
祀られているのは浅間大神。

「雷電神社」(左)の創建年代は定かではないが由緒によると、征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇。これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられている。
覆屋に納められている本殿は地元の大工である岡田伊右衛門の作で建立は寛政7年(1795)以前。

7~8分歩いた先の三叉路に鎌倉街道の案内表示があるので右の道に入り次の三叉路まで来ると道路際にポツンと「如意輪観音」(右)が。「何故ここに」などと野暮は言うまい。

この先でも石仏・石塔が各所に。
先ほど分かれた道に合流した場所に
庚申塔・馬頭観音・二十二夜塔が建てら
れている。 ここから先は旧大佛村宿。
四差路向うの石板は延享2年(1745)の
六道能化地蔵尊道標。
行き先は「右 西八幡山 北 本庄 東江戸
左南 十二天 秩父  大佛村庵」 とある。
ほどなく街道際に馬頭観音や庚申塔・
富士登山記念塔など多数の石仏・石塔が。
鎌倉街道の説明板も設置されている。
数分歩いた先には馬頭観音も。

ほどなく旧広木宿に入るが旧宿を横切る志戸川を渡ったらちょっと寄り道を。

川沿いを5分ほど歩くと万葉集巻九ー1745の恋歌の地とされる「曝井」(左)がある。織布を洗いさらすために使用した湧水で、ここでさらされた布を朝廷に献納。
傍らに設置された万葉歌碑に恋歌が。

曝井のすぐ先の常福寺は天平年間(729~749)創立という古刹。 天正7年(1579)に武田・北条の戦いで堂宇が焼失したが鉢形城主北条氏邦によって再建。「現本堂」(右)は宝暦3年(1753)の再建。

街道に戻り数分、常夜灯があったのでちょっと寄り道を。向かった先は「みか神社」(左)。創建年代は不詳だが延喜式神明帳に記載されているという古社。 神社名の「みか」という漢字は今は使われないが、「みか」とは酒を造るための甕(かめ)のことで当神社の神宝。

参道の途中の石碑は「芭蕉句碑」(右)。
    麦刈て 桑の木ばかり 残りけり   芭蕉

国道254号を歩いていると右手の畑の中に幾つかの小山が見えるが これは「広木・大町古墳群」(左)。六世紀から七世紀にかけて造られたもので現在確認できるのは8基。

その先数分、街道左側公園は「広木一里塚跡」(右)。児玉往還はここで左に曲がり小山川を渡って児玉宿に入るのだが今は消滅。 そこで、ガリガリ君で有名な赤城乳業の工場横を通って小山川の土手に出たら堰堤を渡って行く。
 コメント:強い雨が降ると堰堤を歩く事はできなくなるので注意を。

小山川を渡ったら本庄児玉病院の前を通り県道175号に合流して5分ほど歩くと右奥に「龍體稲荷神社」(左)の赤い鳥居が見える。変わった名前の神社だが由緒が無いため詳しいことは分からない。

神社の脇を通って法養寺に向かったのだが、途中で見つけたのは「芭蕉句碑」(右)。
   父母の しきりに恋し 雉子の声   芭蕉

法養寺の「山門前に庚申塔」(左)が5基あるが ちょっと珍しいのが享保13年(1728)ショケラを提げた庚申塔

山門対面の「六角観音堂」(右)に安置されている観音様は これもちょっと珍しい不空羂索観音。「ぼけ封じ観音」として人気があるそうなので拝んでいかなければ。

今日の街道歩きはここまで。
龍體稲荷神社
の脇を通ってJR児玉駅に向かったがこの道は鎌倉街道上道。いつか歩きたい街道だ。
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