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児玉往還   道中記

 ①川越から高坂まで  ②高坂から奈良梨まで  ③奈良梨から小前田まで  ④小前田から児玉まで  ⑤児玉から群馬藤岡まで

⑤児玉から群馬藤岡まで 街道地図

 平成29年4月16日
児玉往還の旅 最終回は児玉から群馬藤岡まで。 児玉宿は見所が多いのでゆっくり見ておきたいところだ。児玉宿を出たら消滅した旧道の変わりに田圃の中の八高線沿いの道を歩き、
塙 保己一旧宅に寄り道した後は旧道を探しながら八日市、元阿保を通って神流川まで来るとその先は消滅。下流の藤武橋を渡って群馬県に入りJR八高線の群馬藤岡駅まで歩いて終了とした。

前回終了した龍體稲荷神社前から最終回の街道旅スタートだ。5分ほど歩いた先の「玉蓮寺」(左)は児玉党の領主・児玉六郎時国の開基で境内は時国の館跡であった。

寺伝によると日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡流罪の途中と、赦免で鎌倉へ帰る文永11年(1274)に時国の館に泊まったと伝えられている。その日蓮上人が館に上がる際、御足を洗ったとされる「日蓮上人御洗足之井戸」(右)が参道右側の駐車場奥の井戸。

玉蓮寺隣の「東石清水八幡神社」(左)は平安時代末期、源義家・頼義父子が奥州征伐の途中に立ち寄って戦勝を祈願。 帰路、再び立寄って社殿を建立し京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりという。

現在の「社殿」(左)は享保7年(1722)に再建されたもので本殿には素晴らしい彫刻が施されているそうだ。「随身門(右)は宝暦6年(1756)に崇敬者達によって建立されたもの。
境内左手の池に、なんと、二見ヶ浦の夫婦岩があるではないか。

八幡神社の境内北西隅、街道に向かって「江戸時代の高札場」(左)が建てられている。
元々は連雀町と本児玉(本町)の間に在ったが明治7年(1874)に高札の廃止が決められたあと現在地に移転。 修復されてはいるが復元ではないことが素晴らしい。本庄市指定の文化財。

その横、玉蔵寺入口の石塔は「庚申塔と大黒天」(右)。庚申塔は寛政12年(1800)、大黒天は寛政11年(1799)の造立。

「玉蔵寺」(左)は児玉党が康平年間(1342~45)の新田義貞挙兵に従った際の戦死者を慰めるために八幡山雉岡に招魂碑を建立し救世観音を安置したのが起源。
戦国時代、山内上杉氏が八幡山に雉岡城を築城するときに現在地へ移転し堂宇を再建して玉蔵寺と称した。

「山門」(右)は上杉氏築城当時のままのもので飛騨の匠の作とされ釘が一本も使われていない。

仲町丁字路まで来たら左へ曲がって寄り道を。
曲がってすぐに見えたのは「田島屋旅館」(左)。大正6年(1917)建築という建物は、間口は狭いが奥行が深いのにはびっくり。三島由紀夫や吉田健一、中村光男など多くの文人がこの旅館に逗留。

その先の「実相寺」(右)境内に入ると樹齢100年という しだれ桜 が真っ盛り。良い時に来たものだ。 実相寺は延久2年(1070)創建という古刹。江戸時代の盲目国学者 塙保己一(荻野家) の菩提寺。

本堂前の「阿弥陀一尊種子板碑」(左)は文永2年(1266)の造立。阿弥陀如来を示す梵字一字と蓮座が刻まれている。

板碑の奥に見える石碑は「芭蕉句碑」(右)。

     夏草や 兵共が ゆめの跡
     五月雨も 瀬ぶみ尋ぬ 見馴河    芭蕉

街道に戻り児玉駅入口交差点まで来たらまたまた寄り道を。

向かった先は「雉岡城跡」(左)。戦国時代に関東管領山内上杉氏が築いたとされている。徳川家康の関東入国後、松平家清が城主となったが慶長6年(1601)に廃城。以降は陣屋が置かれていた。

本丸南側の堀底に横たわる大石は「夜泣き石」(右)。
城主の側女お小夜が奥方の怒りをかい井戸に沈められてしまったが、その後、夜な夜な泣き声が聞こえてきたという。井戸から引き揚げてみると お小夜は石になっていたのだとか。

交差点まで戻ったら駅方向に向かって歩き明治27年(1894)に建てられた「競進社模範蚕室」(左)の見学を。
養蚕技術の改良に一生をかけた木村九蔵なる人物が 一派温暖育 と称する蚕育法を考案。この実践のために建てたもので全国に広められ養蚕業の発展に大きく貢献した産業構造遺構。

駅入口交差点のすぐ先に「大名小路」(右)と呼ばれる路地があるが この道は鎌倉街道上道から分かれ雉岡城に向かう古道。その手前にある中村美容院の建物は看板建築のような。

JR八高線の高架下を通り国道254号の手前まで来たらボウリング場の横を左へ曲がると「砂利道の旧道」

砂利道を4~5分歩くと「雀の宮橋」(右)という小さな橋がある。此の橋を渡るとその先の旧道は耕地整理で消滅。八高線沿いの田圃の中の道を十数分歩くと旧道が復活するが ここでちょっと寄り道を。

JR八高線の踏切を渡り4~5分、茅葺の民家が見えるが ここは江戸時代の国学者「塙 保己一の旧宅」(左)。 永享3年(1746)生誕の保己一が幼時を過ごした場所だ。

直ぐ近くの塙保己一公園に「保己一の墓所」(右)がある。 文政4年(1821)に亡くなり四谷の安楽寺に埋葬されたが明治19年(1886)に実家である荻野家の墓地に墓碑を建立。
平成24年(2012)に墓碑を現在地に移転し周辺の整備が行われた。

公園隣の龍清寺に「飛龍の榧(かや)(左)と呼ばれる凄い木がある。今にも倒れそうだが倒れない。樹齢200~300年、根本から2~3mのところから曲がっているという何とも不思議な木だ。

街道に戻り10分ほど歩くと「八日市立場跡」(右)。この辺りは八日市と呼ばれ室町時代から八の付く日に市が開かれていた。 道の両側に雑貨物や飲食を提供する店が2軒あったそうだ。

立場跡の突き当りは「熊野神社」(左)。由緒によると「延喜式当国四十四座の一にして・・・・・」とあるのでかなりの古社。本殿は享保14年(1729)の建立で豪華な色彩が施された素晴らしいものだが覆屋の中であるため写真映りが悪いのが残念。

当神社には神川町指定文化財の獅子舞が奉納される。
延宝2年(1674)、八日市での争い事から大火が発生したが この厄払いとして奉納された獅子舞が現在まで続いている。
境内左手、街道際の「庚申塔」(右)は万延元年(1860)のもの。

街道は庚申塔の左側を北進していくのだが その先は旧道がはっきりしない。近い道を選びかれこれ20分ほど歩くと街道際に馬頭観音や庚申塔などの「石塔群」(左)が。

その先数分、県道22号と交差する左側に石積みで囲われた広場に供養塔などが建てられた一角があるが何だろうか。
地元の人に聞くと狭い場所だが「小学校跡」(右)だと言う。詳しいことは分からない。

県道を横断し元阿保公会堂まで来たら斜め左の道に入って行く。

数分歩くと丁字路にぶつかるがその右側に「一本松跡」(左)と云われる場所がある。
この場所は阿保氏館の門前で、松の木があり、旅人のための腰掛石があったということだが今は「右児玉町至一里強」と刻まれた明治45年(1912)「道標」(左)とベンチがあるのみ。

数分歩くと先ほど分かれた道に合流するが その角が「阿保氏館跡」(右)。 阿保氏は武蔵七党の一つで丹党に属する豪族。この館跡は総領家の居住地と伝えられている。

さらに数分、阿保氏館跡の北西に鎮座しているのは「阿保神社」(左)。由緒によると阿保氏によって鎌倉期以降に祀られたとされる。 御神木の大ケヤキが見事。

境内外側に並んだ石塔は「馬頭観音2基と庚申塔5基」(右)。
銘を見ると元文5年(1740)、寛政12年(1800)、万延元年(1860)、と見事に「庚申の年」順。

阿保神社から10分ほど歩くと神流川の堤防に突き当り旧道は消滅。ここは下流の藤武橋へ迂回するのだが せっかくだからと「堤防」(左)に上がり川方向を眺めると藪の向うに石碑らしきものが。

堤防を降り藪へ入って行くと なんと 「御野立所」(右) と刻まれた石碑ではないか。
側面の銘を見ると「昭和九年十一月十二日 関東地方陸軍特別大演習ノタメ行幸」とある。昭和天皇行幸時の碑というのは珍しい。

堤防前まで戻り国道254号に向かって約10分、藤武橋を渡ると上州藤岡に入る。

JR八高線の踏切を渡った先にあったのは寛政9年(1797)建立の「道祖神」(左)。その後ろに小さな道標があるが これは昭和22年(1947)に建立されたもの。

 道祖神の脇を入った突き当りは「霊符殿古墳」(右)。6世紀後半に造られた古墳で円墳とも前方後円墳の円墳部分ともいわれており墳頂には天龍寺の霊符殿が祀られている。

一丁目の三叉路まで来たらちょっと寄り道を。

増信寺の門前に背の高い「一丁目の道標」(左)が据えられている。 説明書きによると天保3年(1832)に建立されたもので道に迷う旅人が多かった三叉路(現・一丁目の三叉路)に建てられていたもの。

増真寺本堂前にある宝篋印塔は「応永の塔」(右)と呼ばれ、室町時代の 応永11年(1404)に造られたもので側面には繊細な仏像が彫刻されている。

街道に戻り5~6分歩くと交差点左側に道標ならぬ「里程標」(左)が。大正4年(1915)に建立されたもので、「自藤岡町 至各町村」と刻まれ、その下に神流村他各町村への距離が*里*町と。

交差点を右に曲がり数分、成道寺の墓地奥に「菊川英山の墓」(右)ある。文化年間(1804~17)に活躍した浮世絵師で初代歌川豊国と共に錦絵の美人画人気を二分した人物だ。

最後に向かった先は「JR八高線・群馬藤岡駅」(左)。  レトロな雰囲気の駅舎は三角屋根が追加されるなど改造されてはいるが児玉駅と倉賀野駅間の八高北線が開通した昭和6年(1931)からのもの。

川越城大手門跡前を出発しテクテクと歩いてきた児玉往還の旅もついに終わりとなった。
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