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旅人 中原街道  道中記 中原街道碑

@桜田門から五反田A五反田から丸子の渡しB丸子の渡しから中山 C中山から桜ケ丘 D桜ケ丘から寒川 E寒川から中原御殿

中原街道D
桜ケ丘から寒川まで 
今は街道沿いに家並みが続くが江戸時代は見渡す限り草原が続いていたのではないだろうか。途中の用田に
継立場があり寒川の一之宮には何軒かの旅籠があった。
桜ケ丘から寒川までは比較的坦々とした街道歩きが続いたが、厚木基地前通過の際はジェット戦闘機の飛行訓練が
行われており、すさまじい騒音という思わぬ経験を。
街道地図

平成27年12月1日
中原街道の旅 5回目は小田急線の踏切を越えた桜株十一面観音前から。 すぐ先の 新道下(しんみちした)交差点を過ぎ 新道下大橋を渡ると上り坂。

米軍厚木基地離陸待ちのジェット戦闘機坂を上りきった先で現・中原街道は左に曲がっていくが旧中原街道は「米軍厚木基地」(左)脇を真っ直ぐ進んで行く。しばらく歩いていたらハラワタを揺さぶるような想像を絶する轟音が。ジェット機が飛び立ったようだ。それにしても凄い轟音。ほどなく旧中原街道は厚木基地の中へ。つまりこの先は消滅。

基地が真正面に見える場所まで歩くと多くのカメラマンが飛行場にレンズを向けている。その先に「離陸待ちのジェット戦闘機」(右)が並んでいるがこの轟音と付き合う地元の人は大変だ。

のっけから街道とは関係ないジェット機の轟音の話で申し訳なかった。これから街道の旅となります。

春日新道石塔が3基 中原街道は厚木基地先の綾瀬大橋交差点で左へ曲がっていくが ここに「春日新道(左)の表示が。道を間違えたか?実は綾瀬市が公募して名付けた愛称。「中原街道」という立派な街道名があるのに余計なことをしてくれたもんだ。

上り坂をしばらく歩くと街道際に地蔵・堅牢大地神・庚申塔などの「石塔が3基」(右)。庚申塔は文化11年(1814)の建立で道標を兼ねており、右側面に刻まれた文字は「?江戸・西阿つぎ 道」。

髭題目碑石塔が3基10分ほど歩いた先、綾瀬市深谷交差点際の大法寺入口両側に据えられた「髭題目碑」(左)は明和4年(1767)建立。傷みも少なく南無妙法蓮華経の文字がしっかりと読み取れる。

その先数分、フェンスに囲まれた中に「石塔が3基」(右)と不動明王が鎮座。左の五輪塔(石塔に五輪塔が彫られている)は宝暦9年(1759)、堅牢大地神は文政2年(1819)、右側の庚申塔は蔓延元年(1748)の建立。不動明王は比較的新しそうだ。

不動明王と堅牢地神道祖神街道は比留川に架かる新道橋を渡って坂道を上っていく。綾瀬市吉岡の交差点を左に入ったすぐの御嶽神社鳥居脇に金網で守られた「不動明王と堅牢地神」(左)が鎮座。傷みがかなり激しく「堅牢・・・・」までしか読めないのが残念。

堅牢大地神、見ることが少ない神だが大地を司る神で春には豊作を祈願し、秋には収穫を感謝するという。矢倉沢往還の松田惣領宿でも何回か見かけることがあった。

さらに十数分、ガソリンスタンド横の路地際に大正11年(1922)建立の「道祖神」(右)がひっそりと佇んでいる。

サイホウ塚中将姫の祠その先の女坂を上ると「サイホウ塚」(左)と呼ばれる小さな塚が。変わった名前だが後ろの卒塔婆には「南無妙法蓮華経為 佐要坊塚」と記されているが云われが分からない謎の石塔。この石塔は道標も兼ねており側面に刻まれた行き先は「右 江戸 左 一之宮」。

ここから藤沢市に入り今度は下り坂。下りきる直前に右に入りちょっと寄り道を。向かった先は「中将姫の祠」(右)。中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、秀でた美貌と才能の持ち主。17歳で中将法如として仏門に入り称讃浄土教一千巻を写経。宝亀6年(775)、29歳で諸仏の来迎を受けて大往生したという。

双体道祖神不動明王道標街道に戻りテクテクと歩いていると後ろから見られているような。フットと振り返って見ると「双体道祖神」(左)が。傍らの碑板に平成9年(1997)再建とある。ちょっと残る手作り感がいいですね〜

用田の辻向うに見えるのは「不動明王道標」(右)。かつて大山詣でが盛んであった安政4年(1775)に道標兼として建立されたものだが風化が進み台座部分に刻まれた道標はほとんど読み取れない状態。交わる道は大山街道柏尾道。

長屋門中原街道は二つのルートに分かれる用田の辻を過ぎると遥か彼方まで真っ直ぐ。その先は大きく左に曲がり次は右に曲がって大蔵(おおぞう)まで来ると見えたのは露木家の立派な「長屋門」(左)。

長屋門の先で「中原街道は二つのルートに分かれる」(右)。右の細い道は江戸時代初期のルートで、寒川小学校東側、安楽寺西側を通り、JR相模線、県道47号を横断して県道45号(江戸時代後期の中原街道)に合流。左に曲がるルートは江戸時代後期に開通したルートで県道45号がこのルートをたどっている。

十三塚(おこり塚)地蔵尊 今回は左に曲がるルートを歩くことに。 小谷(こやと)の交差点を過ぎた左側の小山は「十三塚」(左)の一つ おこり塚。この塚を盗掘した者が瘧(おこり・病の名)にかかったという言伝えがある。その他に「小僧塚」と呼ばれる小さな塚、おこり塚より若干小さい塚も現存。

坂を下った先の小さな公園の奥に「地蔵尊」(右)がひっそりと立っていました。

梶原景時を讃える碑宝篋印塔予備校前の石碑は「(たぐい)稀なる知略・・・文武の偉才」などの文字が刻まれた「梶原景時を讃える碑」(左)。源義経を死に追いやった大悪人とも評された人物だが地元では英雄のようだ。

街道はその先のJR相模線の踏切を渡り景観寺前の丁字路を右に曲がるのだが、左から合流する道は大山街道田村道。その景観寺は天平宝字元年(757)に創立されたと伝えられ古刹。本堂前の「宝篋印塔」(右)は享保12年(1727)の建立。

伝 梶原氏一族郎党の墓梶原景時の館跡景観寺を出てしばらく歩くと広場の入口に「梶原伝七士の墓」と記された案内板があるので広場の奥へ。突き当りを右へ曲がった奥が「伝 梶原氏一族郎党の墓」(左)。正治2年(1200)、梶原氏一族郎党が上洛の途中、清見関(静岡・清水)で討ち死に。留守居役の家臣がここに弔ったと伝わっている。

西町集会所壁面の梶原景時解説板によると、平家に敗れた源頼朝を平家方の梶原景時が発見。だが討たずに救ったことが景時と頼朝の出会いで 後に頼朝の家臣となり一之宮を拝領。頼朝の死後、鎌倉を追放された景時は再起を期し上洛しようとしたが清見関で北条方の攻撃を受け討ち死に。後に里人が「景時の館跡」(右)に天満宮を創設。

車地蔵堂一之宮宿があった辺り景時館跡からほど近い所に「車地蔵堂」(左)があるので寄り道を。堂内に安置されているのは地蔵三体。肝心の車地蔵は厨子の中に納められており御開帳の時以外は拝観できない。

街道に戻ると すぐ先の一之宮小学校付近は大山詣が盛んだったころの「一之宮宿辺り」(右)。 旅籠や茶屋があったが今はその面影は全く無い。

八角広場廃線後の線路跡その先の三叉路を右へ行く道が中原街道だが 左に進んで「八角広場」(左)に寄り道を。かつて西寒川駅があった場所だが第二次大戦中は相模海軍工廠の引き込み線として使われていた。昭和35年(1960)に旅客駅として開業したが昭和59年(1984)に廃線。「廃線後の線路跡」(右)は遊歩道として整備されたが一部区間に線路が残されており往時の面影を感じることができる。


今回の旅はここまで。八角広場からは廃線跡の遊歩道を通ってJR寒川駅へ。

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