L松田惣領宿 まつだそうりょうじゅく |
酒匂川と川音川に挟まれた宿場であるが渡し場が幾度となく変わっており その都度、街道のルートも
変わるため古道を正確に辿ることが難しい。天保12年(1841)に完成した新編相模國風土紀稿によると
「戸数185戸・・・人馬継ぎ立てをなせり・・・」とあるので ある程度の規模を持った宿場であった。
今回の旅では江戸時代後半から明治に掛けてのルートを歩くことにする。 |
街道地図 |
平安・鎌倉時代、及び江戸時代の矢倉沢往還を歩いて共に到着した場所は現在の神山交差点。ここを右に曲り籠場橋を渡って松田惣領宿へ。 |
橋を渡った左詰めに「石仏・石塔」(左)がズラーっと並んでいる。もともとこの辺りにあったものか周辺から集められたのかは定かではないが ここにも夫婦道祖神が。
数分歩くと「堅牢地神」(右)と刻まれた石塔が。文政9年(1826)の建立だが これまで見たことが無い神様だ。仏教の十二天の一つ、大地をつかさどる神様で 春は豊作を祈願し秋には収穫を感謝するために祀られたのだという。どういうわけか松田惣領周辺には堅牢地神(けんろうじしん)が多い。 |
さらに数分、「延命寺観音堂」(左)のイチョウが見事な黄色。あまりに見事だったので思わず1枚。堂内に安置されているのは鎌倉時代の作と考えられる薬師如来坐像・聖観音菩薩立像、室町時代初期の作とされる薬師如来立像。残念ながら1月18日の延命寺観音例祭以外は拝観することができない。
街道はこの先で左に曲がりJR御殿場線のガードを潜り右へ曲っていくのだがガードを抜けたすぐ先に「堅牢地神と可愛らしい夫婦道祖神」(右)が。この先は小田急・新松田駅の横を通っていく。 |
今の松田惣領宿には宿場時代の面影は少ないが一本裏側の道に入ると文政8年(1825)創業の「中澤酒造」(左)が頑張っている。前回訪れたときは庭の片隅で新酒に向けた作業が行われていたが今回は酒蔵の前にありました。「酒林」(右)です。いつ見てもいいですね〜。 しぼりたての新酒は松美酉。
惣領宿内の街道は渡し場が何回か変わったことや東海道線(現御殿場線)・小田急線が通ったことではっきりしなくなってしまった。 |
なんとか十文字渡しがあった付近まで行こうと左に曲がると小田急線のガード手前に「供養塔道標」(左)が1基。「坂本」という文字が読めるが足柄道の坂本駅だろうか。供養塔道標の先に石塔群があることから この道がかつての街道だったことが伺える。
住宅地の中を進み酒匂川の土手に上がると「十文字渡しがあった付近」(右)に到着。夏場は舟、冬場は仮橋であった渡しは右手の小田急線鉄橋の下を通って酒匂川を斜めに横切っていた。 |
街道に戻り次に向ったのは「寒田神社」(左)。 由緒によると「仁徳天皇3年(315)の古代に創建・・・・」とされる古社。倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の折に立ち寄ったと伝えられている。
寒田神社を出たら「十文字橋」(右)で酒匂川を渡っていくのだが、この橋は東海道線(現御殿場線)開通後の明治22年(1889)に大雄山最乗寺道了尊に通じる幹線道路として造られたもの。当初は木製の橋でお金を払って渡ったそうだ。その後、洪水で何回か流されたが現在の橋は平成20年(2008)に架橋。 |
橋を渡った左詰めに「十文字渡しのケヤキ」(左)がそびえているはず、だったが今は2代目に変わってしまい天高くとはいかない。十文字の渡しは対岸までがあまりに遠いので目印に植えられ天高くそびえていたが、ついに力尽きて平成6年(1994)に切り倒されてしまったのだった。
その渡しがあった場所だが、地元の歴史研究家が案内してくれた場所は十文字橋と小田急線鉄橋の中間辺り。表示の類は無いが振り返ると「渡し場から先の旧道」(右)が当時のままの広さで残っている。 |
渡し場を出た街道は道なりに数分歩いて右に曲り、十文字橋に繋がる道に合流。すぐ先のバス停吉田神社入口から左の旧道に入っていく。 |
5〜6分歩くと大長寺の裏に出るがこの辺りは酒匂川対岸の町屋とを結ぶ矢倉沢往還初期の渡し場があった場所。ここに「石仏や石塔」(左)が並んでいるが中にちょっと背の高い塔(矢印)がある。これは秋葉常夜灯で江戸時代は旅人のために一晩中灯っていたのだろう。
もう少し歩くと、なんと「山羊」(右)が。人懐こい山羊で呼んだら一生懸命駆けてくるではないか。可愛いね〜 |
山羊の先は突き当たりを右に曲り県道を横断して「石塔群や石仏」(下)を見ながら旧道をてくてくと。 |
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見所少ない街道を歩いていると牛島自治会館前にあったのは「矢倉沢往還説明板」(左)。「古代、都より東国に通じた官道のなごりともいわれています。・・・・」とある。古代からの道を歩く、ロマンあるねー。
その先で見たのは「宮台のお地蔵さん」(右)。 ガラス張りの御堂に納められた地蔵は全高114センチの立ち姿。江戸時代には近くの本光寺地蔵堂にあったのだが、幾多の変遷を経て今ここに。 |
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