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旅人 矢倉沢往還  道中記 矢倉沢

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E下鶴間宿
しもつるまじゅく
下鶴間宿は江戸よりおよそ11里。 染物問屋、居酒屋、餅屋、質屋などの商家と旅籠が並ぶ街道は
大変賑わっており道巾は4間(約7m)という広さ。この広さは今も変わらない。伊能忠敬や渡辺崋山も
宿泊したという宿場だが、宿場時代の建物は下鶴間ふるさと館のみとなってしまった。 しかし街道を
歩いていると所々に往時の面影を感じることができる。
街道地図

 平成25年8月31日

長閑な街道大ケ谷戸庚申塔長津田宿を出てかれこれ一時間、国道246号の側道を通り トラックが唸りを上げて通り過ぎる国道16号を横断すると横浜市内の道路かと思えるような「長閑な街道」(左)。

10分ほど歩くと鎌倉街道が矢倉沢往還を斜めに横切るがその右側に文久3年(1863)建立の「大ケ谷戸庚申塔」(右)が据えられている。きれいに手入れされているので熱心な信者がいるのだろう。

日枝神社圓成寺(えんじょうじ)その先数分の奥まったところに鎮座するのは「日枝神社」(左)。写真の建物は覆屋だが中に収められた本殿は熊野神社から移設されたもの。棟板に享保11年(1762)の墨書きがあるそうだ。格子戸の隙間から見える本殿の屋根は板葺きの目板打。

数分歩いた先の寺院は天正年間(1753〜92)に開創されたとされる「圓成寺(えんじょうじ)(右)。室町時代に製作されたという聖徳太子像が写真で見られる。16歳の太子だとか。旧1万円札とは随分違うな〜

五貫目道祖神境川さらに4〜5分歩いたら右へ曲っていく道が旧道だが曲った先は国道に突き当たって先へ進めない。もう少し先まで歩くと公園に石塔が1基。 これは安政3年(1856)建立の「五貫目道祖神」(左)。元々はもう少し西の境川鶴瀬橋手前に祀られていが国道246厚木バイパス開通にともないこの地に移転。五貫目は地名。

国道の陸橋下を通り旧道に戻って数分、「境川」(右)を鶴瀬橋で渡るがこの川は武蔵国と相模国の国境を流れていた事から境川と呼ばれており今も東京都町田市と神奈川県大和市の県境。

観音寺大山阿夫利神社御分霊社境川を越えてすぐ右側の 「観音寺」(左) は創建年代不詳だが古くは金亀坊と呼ばれていた。その後、観音菩薩を祀った観音堂がこの地域の大火でも難を免れたことから観音寺に改めたという。

観音寺を出て県道を横断すると「大山阿夫利神社御分霊社」(右)なる神社がある。その奥に新田義貞に縁のあるという高下宗家の説明碑があるのだが神社の由緒が無いため詳しいことは分からない。

鶴間村宿場碑旧下鶴間宿辺り街道際に相州鶴間村宿と刻まれた「宿場碑」(左)が建てられており碑の両側に「是より東江戸十里・ 是より西大山七里」 と刻まれている。江戸時代の旅人だったら ここから大山まで今日中に到着したことだろう。

この辺りが「旧下鶴間宿」(右)。道路の広さは当時のままだという。江戸時代だったらさぞかし広かっただろうが今は歩道も造れない狭さ。こんな狭い道路にもバスが走っていたが運転手さんが可哀そう。

高札場(復元)下鶴間ふるさと館数分歩いた交差点の向こうに見えるのは復元された「高札場」(左)。高札場の後ろは旧小倉家の母屋と袖倉を修復・復元した「下鶴間ふるさと館」(右)。休憩がてらの見学に最適。旧小倉家住宅は安政3年(1856)建築の商家造りで当初は萱葺きであった。隣に袖倉があるが こちらは大正7年(1918)の再建で比較的新しい。

入口に明治4年(1871)頃の下鶴間宿の写真が掲示されているが 萱葺きの家が並ぶ当時の宿場の様子がよく分かる。

旧長谷川彦八家下鶴間不動尊参道ふるさと館の反対側に黒板塀の旧家が見えるが ここは豪農で神奈川県議会議長も務めた「旧長谷川彦八家」(左)。現在も長谷川家のお屋敷だ。長谷川家には伊能忠敬測量隊が宿泊したという記録があり、お銀さんを尋ねる途中の渡辺崋山も訪れたとか。

その先は緩い上り坂となるが途中に「下鶴間不動尊参道」(右)があるので階段を上ってみることに。不動堂を覗くと お不動様 がこちらを睨んでいました。

下鶴間宿説明板鶴林寺街道に戻ると道路際に建てられた「下鶴間宿説明板」(左)に往時の下鶴間宿の様子が記されているのがうれしい。

説明板のすぐ先の階段を上がると永禄12年(1569)創建の「鶴林寺」(右)。古刹を想像していたが本堂は鉄筋コンクリート造りでちょっと拍子抜け。

子育て地蔵尊厄除け地蔵尊鶴林寺を出て数分、三叉路の右側に「子育て地蔵尊」(左)が祀られている。地元の方が御堂の掃除をしていたが、この方が言うには「以前はお地蔵さんが3体あったはず。いつのまにか一体が無くなっているの」。たしかに左側の隙間に違和感がある。お地蔵さんを盗むとはなんとも罰当たりな輩だ。

さらに数分歩いた三叉路の向こう側には「厄除け地蔵尊」(右)が祀られているが、こちらも地元の方が小まめに掃除をしているのだろう。花が手向けられているのも嬉しい。

道標旅籠まんじゅう屋跡地蔵尊反対側の土屋家は「旅籠まんじゅう屋跡」(左)。初代土屋伊兵衛が開いた旅籠では饅頭も商っていたので俗称まんじゅう屋。渡辺崋山の遊相日記に 「角屋伊兵衛、俗にまんちうやという家に宿す」とある。崋山は長谷川彦八家に泊まる予定だったが 当日の長谷川家は大変取り込んでいたことからまんじゅう屋に泊まったのだとか。

左写真の植え込みに「道標」(右)が1本。残念ながらかなり埋まってしまっており右とか左しか読めない。

矢倉沢往還碑庚申塔まんじゅう屋跡から10分ほど歩いた先の交差点際に日枝神社があるが、その入口に「矢倉沢往還碑」(左)が建てられている。刻まれている道筋は「東西矢倉沢往還」「南北滝山街道」。南北に走る滝山街道は八王子の滝山城と鎌倉の玉縄城を最短距離で結ぶ道路として戦国時代にできたもので、江戸時代には相州の南北方向の主要街道となっていた。

街道碑の横に「庚申塔」(右)が2基。風化が進んでおり 特に大きい方は元の姿が全く見えない。3個の丸い穴がなんとも不思議だ。

この先は単調な街道歩きとなるが忘れた頃に街道碑や石塔が現れるので見落とさないように歩こうではないか。
矢倉沢往還説明碑 矢倉沢往還碑矢倉沢往還碑大山街道碑石塔
日枝神社を出てかれこれ15分、旧厚木街道との
合流点に
「矢倉沢往還説明碑」が歩道際に
据えられている。その先は鶴間駅踏切り。
・小田急江ノ島線の鶴間駅踏切りを渡って10分ほどの歩道際に矢倉沢往還碑が設置されている。
さらに十数分歩き、三叉路を右に入ると、大和斎場入口にも
の矢倉沢往還碑が設置されている。隣の寺院は西鶴寺。
・途中で国道246号を迂回しながらかれこれ30分弱、さがみ野2丁目交差点の石柱は
大山街道碑
さらに15分、大塚本町交差点際の万年屋横に
石塔が1基。表面が崩れているため詳細は不明。

この先1時間弱歩けば次ぎの国分宿であるが、その途中で渡辺崋山が訪れた お銀さまへの道 に寄り道を。


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