C荏田宿 えだじゅく |
鎌倉街道と矢倉沢往還が通るこの地は交通の要衝であったことから鎌倉時代に荏田城が築かれ、
城下集落として発展。宿駅に指定されたのは江戸時代初期。文久3年(1863)には35軒の旅籠と
30軒近い商店が軒を並べていたという。江戸から七里という距離であったことから江戸を早朝に
発った旅人の最初の宿泊地であった。 |
街道地図 |
二子・溝口宿を出てかれこれ1時間、田園都市線宮前平駅横から尻手黒川道路を横断すると「小台坂」(左)と呼ばれる長ーい上り坂。猛暑の続く今日このごろにはちょっときつい上り坂だ。
暑い暑いと言いながら ゆっくり上っていくと自然界にはもう秋が見え始めていた。まだ青いですが「栗です」(右)。なんだか涼しくなったような。 |
500mほど上った先で右折するとその先は緩い上り坂。ほどなく下り坂となり鷺沼交番前交差点を過ぎて銀行脇を左に曲がっていく。左に曲がり八幡坂を下ると国道246号に突き当たるので右に曲ると元禄元年(1688)建立の「阿弥陀石仏」(左)がお堂の中に鎮座。 やさしいお顔の阿弥陀様だ。
その先の交差点で国道を横断すると街道際に「馬頭観音」(右)がある。傍らの説明碑によると文化2年(1805)の造立で道標を兼ねており「右王禅寺道 左大山道」と刻まれているそうだが読み取れない。コメント:平成29年1月10日に確認したところ、馬頭観音と説明碑は撤去され更地となっていました。
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馬頭観音の説明碑にも記されていたが、大規模な宅地開発で旧道が消滅状態。旧道に近い道を選び坂道を上っていくと峠に近い辺りで「旧道」(左)に復帰することができる。ここは川崎市と横浜市の市境。僅かな区間だが樹木が生い茂り、眺めも良い。
数分歩くと「旧立場の皆川園」(右)前に出るが この辺りから先の下り坂を うとう坂と呼んでいた。 |
うとう坂に続く先は あゆみが丘というシャレタ地名だが かつては「血流れ坂」(左)と呼ばれた物騒な下り坂。
坂を下り県道を横断した先は「牢場谷戸」(右)と呼ばれていた。一説によると「この辺りに牢屋があり血流れ坂の上には磔場。処刑された罪人の血が坂道を流れ下った」のだとか。
しかし少なくとも江戸時代にこの地域に牢場や刑場があったという記録は無い。またそれ以前の記録にも見当たらない。 |
道なりに10分、山裾の水場は「不動の滝」(左)。今は竹樋から僅かな水が流れ落ちているだけだが かつては滝だったのだろう。霊泉の滝と書かれた説明板によると「雨の降らない時、ここで雨乞いすると必ず降りました」とある。霊験あらたかな滝のようだ。
不動の滝後ろの山の上に「老馬鍛冶山不動」(右)が鎮座。これは今から300年ほど前、大久保家の守り本尊として祀られた不動明王。 コメント:いつの頃からか、牢場が老馬に変わっている。 |
街道はこの先で右に曲がり早渕川を渡っていくのだが今は橋が無い。200メートルほど下流の鍛冶橋を渡って対岸へ。 |
橋を渡って数分、公園の端にある「庚申堂」(左)に祀られているのは寛政5年(1793)に荏田村下宿の婦人たちによって建立された「庚申塔」(左)。
庚申堂の先から「旧荏田下宿」(右)であったが明治27年(1894)の大火で当時の面影はほとんど失われてしまった。 |
往時の面影少ない荏田宿だが旧中宿(国道246号の手前)に文久元年(1861)に建立された「秋葉常夜灯」(左)があった。荏田宿は文政4年(1821)に大火に遭っていることから、後年、火伏せの神である秋葉大権現を勧請。
街道は国道を横断した先の上宿で左に曲がっていくが、その右手に見える山は鎌倉時代に築城された「荏田城址」(右)。太田道灌に攻められた小机城の支城と云われているが詳しいことは分からない。 |
この先で国道に合流しすぐに旧道に入っていくのだが旧道入口のフェンス外側に「庚申塔」(左)が忘れられたようにひっそりと。その先も僅かな区間だが忘れられたようにひっそりとした道路で なんとなく街道時代を想像させてくれる。
街道はすぐに東名高速の高架下を通り田園都市線のガード下を抜けていくのだがガード手前の「地蔵堂」(左)に3体の地蔵が鎮座。赤い帽子に赤い涎掛け、大事にされている。 |
旧道は田園都市線江田駅を迂回して大きく円を描きながら南へ向っていたのだが国道工事などで消滅。今は線路沿いを通っていく。 |
しばらく歩くと千日堂と呼ばれている「竹下地蔵堂」(右)の下。階段の途中に10体の地蔵が鎮座しているが階段上の地蔵堂には4体の地蔵石像と行者像が祀られているが見ることはできない。
地蔵堂横から裏道に入り小学校横を進むと「市ヶ尾横穴古墳群」(右)が見られる。19基ある横穴古墳は6世紀後半から7世紀に掛けて造られたという。江戸時代の旅から一気に古墳時代に遡ってしまった。 |
街道に戻ると竹下地蔵堂の先に左へ下る坂道があるが この坂を「猿田坂」(左)という。その昔の嫁入り行列はこの坂を避けたのだそうだ。なぜって、猿は去るに通じるから。
猿田坂を下ると旧日野往還との交差点。その左向こうに見える2階建て古民家は「旧旅籠綿屋」(右)。明治15年(1882)頃の建築だが明治末期まで営業していたという。
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街道は「鶴見川」(左)を三文橋(旧川間橋)を渡っていったのだが道も橋も消滅。江戸時代には太鼓橋が架かっており橋を渡るのに3文取られたので三文橋と呼ばれていた。今はちょっと上流の川間橋を渡っていく。
橋を渡って数分、三叉路を右へ入る道が大山街道旧道で すぐ先の交差点が「大灘の辻」(右)。大雨が降るとこの先の医薬神社あたりから土砂が流れ込み、しばしば埋もれてしまったとか。辻の向こう左側、田中屋マートは三代将軍・家光を治療したと伝えられるマムシ薬を販売していたことがあったとか。
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この辺りは大規模な宅地開発で旧街道は消滅し旧道のルートは定かではない。だが街道沿いにあったという榎が健在であった。大灘の辻を越えた先の丁字路を右に曲がると「一理榎」(左)が今も元気に育っている。区画整理で個人宅に移されたもので樹齢は600年だという。明治3年(1870)の火災で樹心部が焼けてしまったのが痛々しい。
メイン道路に移り坂道を上りきったところの十字路を右に曲がると「医薬神社」(右)。この神社の由緒がちょっと変わっている。元々は安土桃山時代の創建と伝わる医王山薬王院東光寺であったが明治初年の廃仏毀釈で宗旨替えして医薬神社になったのだという。
この先は住宅地の中を通って藤が丘に抜け長津田宿を目指すのだが途中に大臣栄誉賞を受賞したという和菓子屋さんがあったので横濱どら焼き を購入。これがめっぽう美味かった。どら焼きは美味かったが、この先、旧道がどのくらい残っているか心配だ |
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