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旅人 矢倉沢往還  道中記 矢倉沢

赤坂御門から三軒茶屋三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道二子溝口宿荏田宿長津田宿下鶴間宿国分宿
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@赤坂御門から三軒茶屋へ   江戸時代に整備された矢倉沢往還は江戸城・赤坂御門前が起点とされている。御門前の緩い坂を
下って青山通り(現国道246号)に入り 渋谷を通って池尻から三軒茶屋に抜けていく。
都心のど真ん中を通っているのだが以外と坂道が多い。それぞれに江戸時代に付けられた坂名が
残っており、その云われを知るのも楽しみの一つ。
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 平成25年6月4日

赤坂御門跡見附跡「赤坂御門」(左)は江戸城外濠に設けられた幾つかの見附門の一つで、すぐ先にある「見附跡」(右)とセットの枡形門となっていた。寛永13年(1636)に福岡藩主・黒田忠之によって枡形石垣が築かれ、寛永16年(1639)に御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成。

赤坂御門の説明板に「・・・・大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました」とある。大山講の人達はこの前に参集したのち仲間と連れ立って大山阿夫利神社へ向ったのだろう。

弁慶濠と弁慶橋九郎九(くろぐ)坂赤坂御門前の坂を下ると右手に見えるのは「弁慶濠」(左)と弁慶橋。多くの江戸城外濠は埋め立てられてしまったが弁慶濠だけはかろうじて往時のままの姿弁慶という名称は弁慶小左衛門なる人物が係わったためのようだが 濠に係わったのか橋に係わったのか諸説あり定かではない。橋は江戸時代には無かったもので明治22年(1889)に架けられたもの。

街道は弁慶橋の前から赤坂見附交差点を渡り青山通り(国道246号)の緩い坂を上っていく。ほどなく「九郎九(くろぐ)坂」(右)と記された標柱が目に入る。変わった名前の坂だが赤坂一ツ木町の名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいたことからこの名が付いたという。

豊川稲荷東京別院豊川稲荷東京別院本殿九郎九坂の隣が「豊川稲荷東京別院」(左)。境内に足を踏み入れると都会の真ん中とは思えない静けさ。元は大岡越前守忠相の屋敷稲荷であったが明治20年(1887)に現在地へ遷座。稲荷と言うが正式名称は豊川閣妙嚴寺という曹洞宗の寺院で本尊は豊川陀枳尼眞天(だきにしんてん)。豊川稲荷のHPによると 「豊川陀枳尼眞天は稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか豊川稲荷が通称として広まり現在に至っている」 のだそうだ。

寺院であるのに本堂と言わず「本殿」(右)というところがなんとも妙、祀られているのは本尊の豊川陀枳尼眞天と愛染明王及び摩利支天という仏様。本殿の前に狐が、やはり妙だ。

街道は豊川稲荷の手前で歩道橋を渡り左の旧道に入って行くのだが名前の付いた坂が幾つかある。

牛鳴坂 弾正坂 薬研坂
青山通りから左の旧道に入るとすぐ上り坂。この坂を
「牛鳴坂」 という。上り坂でしかも路面が悪かったため牛が
悲鳴を上げたのだそうだ。
牛鳴坂を上りきった右側の緩い下り坂は「弾正坂」
西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)
に任ぜられることが多かったためこの名が。
旧道から青山通りに合流する地点に左から上ってくる坂があるが
この坂は「薬研坂」という。字のごとく薬研のような形の坂だから。

赤坂御用地高橋是清翁像青山通りに合流すると広い車道の向こうに延々と森が続くが ここは紀州徳川家の上屋敷があった場所で現在の「赤坂御用地」(左)。皇太子(現在の令和天皇)が住まわれる東宮御所はこの中。

その先の街道際の公園は高橋是清翁記念公園。雑木林のような公園の奥に「高橋是清翁像」(右)が見えるが かの有名な2・26事件で暗殺されたのはこの地にあった自宅ニ階であった。

玉窓寺山門龍泉寺記念公園から10分ほど歩いたらちょっと寄り道を。左の道を入った突き当たり手前の玉窓寺は慶長6年(1601)開創の歴史ある寺院だが味わいある「山門」(左)と現代的な本堂との落差が面白い。

突き当たり右側の「龍泉寺」(右)は創建年代不詳ながら立派な赤門を持つ寺院。赤門ということは徳川家となんらかの関係があるのではと近づくと、やはり門扉に三葉葵が。残念ながら由緒の類が無いため詳しいことは分からない。

梅窓院参道青山善光寺街道に戻って青山通りを10分ほど歩いた先の「梅窓院参道」(左)は両側に金明孟宗竹が植栽され見事な竹林が続く。その梅窓院は寛永20年(1643)、老中青山大蔵幸成公逝去のとき青山家の下屋敷に建立された寺院で、青山家の菩提寺となっている。この辺りを【青山】と呼ぶのは青山家の下屋敷があったからとか。

この先も青山通りを歩き到着した所は「青山善光寺」(右)。徳川幕府成立前の慶長6年(1601)、徳川家によって信州善光寺の別院として谷中に設けられたのがスタート。火災で焼失し現在地へ移転。

金王八幡宮芭蕉句碑青山善光寺を出たら再び青山通りを歩き渋谷に向うのだが、またまた寄り道を。青山学院脇を通って向った先は「金王八幡宮」(左)。歴史は古く、寛治6年(1092)に渋谷氏の祖、河崎基家が創建。重家の代に堀川天皇から渋谷の姓を賜ったが これが渋谷の地名の発祥といわれている。

社殿は 二代将軍秀忠の次男・竹千代(家康の幼名と同じ) が三代将軍に決定した事のお礼として春日局の寄進により建てられたもの。社殿右脇の石碑は「芭蕉句碑」(右)。
  志ばらくハ 花のうえなる 月夜かな  はせを

庚申塔宮益坂八幡宮の隣りに見える朱鮮やかな鳥居は豊榮稲荷神社。その境内に13基ほどの「庚申塔」(左)が並んでいる。元々は村や町中に建てられていたのだが都市化が進み明治末から大正に掛けて順次集められたもの。銘を見ると貞享・延宝・元禄などの文字が。

街道に戻り数分歩くと道はふた手に分かれるが右へ下る道が矢倉沢往還の「宮益坂」(右)。かつては富士見坂と呼ばれていたが この辺りが渋谷宮益町と呼ばれていたことから いつしか宮益坂に。

御嶽神社渋谷スクランブル交差点宮益町の語源となった神社が坂の途中、右奥の「御嶽神社」(左)。【宮前で益々栄えるように】と宮益町となったのだろうか。かつては鬱蒼とした森の中に鎮座していた神社も今はビルの谷間にこじんまり、なんともせつない。この神社で見逃せないのが日本狼の狛犬。秩父地方には狼狛犬が多いようだが この辺りでは珍しい。

街道は宮益坂を下り交差点を右に曲がり 山手線の高架下を通ると かの有名な「渋谷スクランブル交差点」(右)。交差点を渡り渋谷駅前広場に寄り道を。

東横線旧5000系電車忠犬ハチ公像なんと懐かしい。「東横線旧5000系電車」(左)が展示されているではないか。タクアン色と揶揄された東横線に、さっそうと登場したのが丸みをおびた旧5000系。その色からさっそく あお蛙 の愛称が。
  コメント:その後撤去され今はありません。

広場をもう少し奥まで歩くと「忠犬ハチ公像」(右)が。死去した主人の帰りを駅前で待ち続けたという秋田犬。多くの方がカメラやスマホのレンズを向けていました。

道元坂道元坂標柱再び街道に戻り1〜2分、二股に分かれた左側の坂道を上っていくのだが この坂を「道元坂」(左)と呼ぶ。
由来は2説あり
一つ目は 鎌倉時代、和田義盛一族滅亡後、残党の和田太郎道玄らが此所の窟に住み山賊となす。以来 この坂を道玄坂と。
二つ目は この辺りに道玄庵という寺があったので道玄坂に。

この喧騒の町がかつては山賊がいるような山中だったとは。江戸時代に入ると大名の下屋敷が散在し大山講の旅人が行き交った坂であった。

与謝野晶子歌碑道玄坂道供養碑道玄坂を上りつめた交差点手前のポケットパークに据えられているのは「与謝野晶子歌碑」(左)。
   母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かゝる
与謝野寛(鉄幹)と結婚し道玄坂近くに住んでいた晶子は道玄坂上にたたずみ、西空の果てに連なる連山を眺め遠く堺の母を偲んでいたという。

歌碑の後ろに「道玄坂道供養碑」(右)が建てられている。 傍らの説明碑には【渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき、その一族の大和田太郎道玄が道玄庵を造り住んだので この坂を道玄坂という】とある。ここに三つ目の説登場。

大坂上目黒氷川神社裏参道道玄坂を上りきって高速道路下を歩くと右側へ下る急坂があるが、この坂を「大坂」(左)という。標柱に「厚木までの四十八坂のうち急坂で一番大きな坂であったので大坂と呼ぶようになった」と。確かに急な下り坂。大坂を下ると山手通り(環状六号)にぶつかるが その先は大規模な道路工事で旧道が消滅。

ならばと山手通りを横断したら玉川通りの側道を上って「上目黒氷川神社裏参道」(右)へ。

上目黒氷川神社道標と供養塔「上目黒氷川神社」(左)のご由緒によると天正年間(1573頃)に武田信玄の家臣であった加藤氏が甲州・上野原より産土の大神を勧請。表参道の階段を下ろうとしたら半端ではない急階段。文化13年(1816)に造られたという階段は明治38年(1905)の大山街道(現玉川通り)拡張の際に現在のような急階段に改修されてしまったのだとか。

階段を下った右側に「道標と供養塔」(右)が建てられている。天保13年(1842)の建立で正面に【大山道 せたがや道 玉川道】と刻まれ、左右には【青山 あさぶ ひろう めぐろ】などの文字が読める。

目黒川涸れずの井戸跡氷川神社を出て玉川通りを数分、左下に見える川は桜の名所として知られる「目黒川」(左)。新編武蔵風土記稿に 【大橋目黒川に架ス 土橋ニテ長サ七間幅九尺 ・・・】 とあり当時からかなり大きな橋が架かっていたようだ。街道はすぐ先で旧道に入っていくが旧道にはいると とたんに車の往来が少なくなり静かな街道。

程なく到着した池尻稲荷神社の参道入口に子どもの像が2体。この場所は「涸れずの井戸跡」(右)で、江戸時代、どんなに日照りが続いても涸れることなく旅人の喉を潤す井戸があったという。


まもなく矢倉沢往還最初の宿場である三軒茶屋が近い。

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