K千村宿 ちむらじゅく |
新編相模國風土起稿に千村のことが「矢倉沢往来係る幅2間半 人馬継ぎ立てをなす・・・・」 と
記されていることから主要な宿場でそれなりの賑わいもあったようだが、今の千村は静かな住宅地。
旧宿場を出てしばらく山道を歩くと思わぬ場所に江戸時代と現代が背中合わせという場所がある。 |
街道地図 |
曽屋宿を出てかれこれ1時間。前回は「稲荷神社前交差点」(左)を左に曲がって平安・鎌倉時代の矢倉沢往還を歩いたが今回は真っ直ぐ進み江戸・明治時代の本道を歩くことに。
きつくは無いが長い上り坂を10分ほど歩いた所に見えたのは地元の人が「ふたんづか」と呼ぶ「二つ塚」(右)。真ん中の文化14年(1817)に建立された堅牢大地神は道標も兼ねており刻まれている文字は「右 大山 十日市場 道」「左 ふじ さい志やう みち」。 |
二つ塚のすぐ先から 「旧千村宿」(左)であるが今はごく普通の住宅地。かつては人馬継ぎ立てで賑わった千村だが今は静かな町並みに変わってしまい往時の面影を探す事は難しい。
住宅地が終わった先は「山中の道」(右)。四十八瀬川に向ってうねうねと曲った道を下っていく。 |
道端に「浅間大神塔設置跡」(左)と記された標柱が1本。横の説明書きに「此の地より多くの賽銭(古銭)が出土している」とある。富士山参詣の旅人がここにあった浅間大神塔に捧げた賽銭なのだろう。
この先に「車止め」(右)があり車道はここまで。その先に歴史の道 矢倉沢古道 と板書された案内板が設置されている。 しかし地図にはこの先の道が記されていない。はたしてどこまで行けるだろうか。 |
車止めの先も「落ち葉に埋もれた下り坂」(左)。やがて薄暗い林の中の道。ちょっと背筋が寒くなるような。
しばらく歩くと倉庫らしきものが見え表示板に「矢倉沢往還道 沓掛 不動尊 あと400m」(右)とある。ほっとする瞬間だ。この先は雑草と薮で歩ける状態ではなかったそうだが「矢倉沢往還道を蘇らせる会」の皆さんが苦労して薮を払い普通に通れるようにしてくれたのだった。感謝である。 |
さらに下っていくと 「おや、電車が走っているような音が」。そのうちに架線が見え、線路が見え、走ってきた電車は小田急線でした。 |
線路際の石段を下ると「馬頭観音」(左)が1基。建立年が大正9年(1920)となっている。小田急線開通が昭和2年(1927)であるので、その頃までは街道として機能していたのだろう。
その先に是非見たかった「不動明王」(右)が鎮座。安永3年(1774)に千村の半谷佐五衛門とその妻が祀ったもの。
「西の玄関口、沓掛とも呼び、わらじを履き替えたりほしたり、木に掛けました。・・・・」と書かれた説明板があるこの一角は正に江戸時代そのまま。だが、その背中を最先端の小田急ロマンスカーが走り抜ける。 |
沓掛の先は遮断機が設置された立派な「踏み切り」(左)。廃屋が1軒あるがそのための踏み切りだろうか。踏み切りを安全に渡ることができたが問題はその先の四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)をどう渡るかだ。
僅かな踏み跡をたどると竹薮が切り開かれ、その先に「仮橋」(右)が在るではないか。戻らなくて済んだ、よかった〜。「矢倉沢往還道を蘇らせる会」の皆さんが設置してくれたのだろう。ここでも感謝。 |
仮橋を渡り、「四十八瀬川」(左)の河原を横切って石垣の下に作られた桟(かけはし)を歩き、階段を上って草むらを進むと「国道246号」(右)に出たのでした。ここは大雨が降ると河原が水没するので大雨の後2〜3日は注意した方がよい。
戻ることを覚悟で歩いてきた道だが無事に通過できホっとしている。 |
国道246号を7〜8分歩き、蛇塚交差点を左に曲がってしばらく歩くと神山滝入口の表示があるのでちょっと寄り道を。 |
国道246号を7〜8分歩き、蛇塚交差点を左に曲がってしばらく歩くと神山滝入口の表示があるのでちょっと寄り道を。幅30センチほどの狭い山道を5分ほど登ると滝の音が聞こえるので今度は滝に向って下ること数分。見えたのは2段に分かれて落ちる落差20mほどの「神山滝」(左)。かなり急な山道を登らなければならないが条件が整うと虹が見えるという隠れた滝見スポット。
街道に戻ると その先は砂利再生プラントや生コン工場が並ぶ無粋な道となってしまうが、ここにも座り地蔵が。 その先の東名高速道路高架橋の手前で「平安・鎌倉時代の道と合流」(右)する。 |
「神山交差点」(左)まで来たら前回は真っ直ぐ進んで江戸時代初期の道を通り酒匂川まで歩いたが 今回はここを右に曲り川音川に架かる「籠場橋」(右)を渡って行くことに。
籠場橋を渡れば松田惣領宿が近い。 |
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