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旅人 矢倉沢往還  道中記 矢倉沢

赤坂御門から三軒茶屋三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道二子溝口宿荏田宿長津田宿下鶴間宿国分宿
            ⇒厚木宿宿愛甲糟屋宿大山阿夫利神社善波峠曽谷宿平安時代の道千村宿松田惣領宿 関本宿矢倉沢宿竹之下宿御殿場裾野から沼津

A三軒茶屋
から江戸時代初期の道  
三軒茶屋という地名は矢倉沢往還の本道と 大山講が盛んになった文化・文政期以降に開かれた新道の
分岐点に信楽(後の石橋楼)・田中屋・門屋という3軒の茶屋があったことがおこりと云われている。
各茶屋には座敷があり、膳が整えられ、茶屋娘が接待するという立派な料理茶屋であった。
赤坂御門前を発った旅人にとって最初の休憩地であったことから結構な賑わいであったそうだ。
街道地図
 平成25年6月4日

三宿交差点追分道標玉川通りから旧道に入り池尻稲荷神社前を通って再び玉川通りに合流すると、その先は「三宿交差点」(左)。はて、この辺りに宿場などあっただろうか。調べると「蛇池・龍池があったことから水の宿る池、つまり水宿とついたものが後に三宿に転じた」 という。ちょっと紛らわしい。

ほどなく到着した場所は玉川通りと世田谷通りの分岐。分岐点.の真ん中に建てられているのは不動明王が乗った「追分道標」(右)。この道標は寛延2年(1749)に建立され文化9年(1812)に再建されたもの。刻まれている文字は正面に【左相州通大山道】 左側に【此方二子通】 右側に【右富士、登戸、世田谷通】 。

大山講の旅人田中屋道標の建てられた場所は三軒茶屋と呼ばれ賑わった場所。街道はここで律令時代からの本道(現・世田谷通り)と文化・文政期に開かれた新道(現・玉川通り)に分かれるので最初は本道である世田谷通りへ入っていくことに。

三軒茶屋の由来となった3軒の茶屋は火災や強制立ち退きなどで姿を消したが火災で焼失した「田中屋」(左)が、その後、当時と同じ場所(茶沢通り入口)で陶器店を開業。

本道に入ってすぐの交番前に三軒茶屋説明板があるが、それによると江戸時代は大山詣での旅人のみならず多摩川行楽の人々の休み処としても賑わっていたという。その説明板に「大山講の旅人」(右)が茶屋に入ろうとする絵が描かれている。なかなか優雅な旅姿ですね〜

最勝寺不動堂東急世田谷線電車本道を歩く前にちょっと寄り道を。向った先は教学院最勝寺。境内右手の「不動堂」(左)に祀られているのは東都五色不動の一つ、慈覚大師・円仁作と伝わる目青不動尊 。不動堂は閻魔堂として建てられた関係で閻魔大王と奪衣婆も祀られているが、はてさて、不動明王と閻魔大王の仲はどうなのかな。

教学院を出ると かっこいい電車が。かつてはちんちん電車のような車両であった「東急世田谷線電車」(右)がいつの間にかこんなにスマートな電車に。


駒留八幡宮常盤塚街道に戻り十数分、環七通りの交差点まで来たら左へ曲って寄り道を。「駒留八幡宮」(左)は徳治3年(1308)、地頭の北条左近太郎入道成瀬が夢に現れた八幡神の「私を祀る場所は馬に聞け」の教えに従い馬の留まったところに社殿を造ったことから駒留八幡宮。その後、世田谷城主・吉良頼康が 自害した側室の常盤姫を弁財天として境内社の厳島神社に祀ったという。

神社の先に その「常盤塚」(右)があるが傍らの説明碑に 「薄幸の佳人常盤の方ここに眠る・・・・他の側室の讒訴を信じた頼康から遠ざけられた常盤は自害。時人これを憐れみ一塚を築く・・・・願わくは常盤の霊よ安かれ」

大吉寺伊勢貞丈の墓街道に戻り十数分、右奥の寺院は作家であり僧侶でもあった寺内大吉氏の実家「大吉寺」(左)。なまぐさ坊主作家などと揶揄されたこともあったが晩年に務めたのは芝増上寺八十七代法主。

墓地の一角に江戸時代中期の有識古実家「伊勢貞丈の墓」(右)がある。あまり馴染みない人物だが中世以降の武家の制度や礼式に詳しく武家諸法度考など彼の著書は大変珍重されたのだそうだ。

世田谷城址豪徳寺山門先ほどは世田谷通りから左へ曲って寄り道したが今度は右へ曲って2ヶ所ほど寄り道を。

最初に向ったのは「世田谷城址」(左)。14世紀後半、足利氏の流れをくむ吉良治家がここに居住。戦国時代を上手く乗り切った吉良家だが天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略で世田谷城も廃城。

次ぎに向った先は「豪徳寺」(右)。文明12年(1480)、世田谷城主吉良政忠が弘徳院として建立したと伝えられている。その後、彦根藩・井伊家の菩提寺となり、藩主直孝の法号から豪徳寺に改称。境内には直孝の娘・掃雲院が寄進した仏殿や、延宝7年(1679)に完成した梵鐘などが今も当時のままの姿。

招き猫井伊家墓所江戸時代、彦根藩主井伊直孝が鷹狩の帰り、寺の前を通ると猫が手招きを。このため寺に立ち寄り休憩していると激しい雷雨に。雨に濡れずにすんだ直孝はこれを喜び多額の寄進をし菩提寺に。寺の和尚は猫が死ぬと招猫堂を建て弔ったという。後世、猫の姿形を作り招福猫児としたのが今日の「招き猫」(左)。

境内左手奥は「井伊家墓所」(右)で 二代藩主直孝を始め歴代の藩主や大老井伊直弼などの墓があり国指定史蹟。

 ここから平成25年6月27日

代官屋敷表門石塔群世田谷通りに戻り、一本左側の旧道に入ると街道際に「代官屋敷表門」(左)、その奥は代官屋敷主屋と土蔵など。ここは大場家代目六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事で完成させた建物で土蔵などもあるが表門(左)と主屋は国指定の重要文化財。ちなみに大場家は元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官を世襲で務めておりその役宅として使われていた。

世田谷郷土資料館が併設されているが、その前庭に説明付きで並べられているのは庚申塔や地蔵尊、萬霊塔、狐の石像など寄贈された「石塔群」(右)。

ボロ市通り大山道と登戸道の追分街道に戻ると そこは「ボロ市通り」(左)。天正6年(1578)に小田原城主であった北条氏政が発した楽市掟書が起源とされる六斎市が代官屋敷前の通りで開かれていた。その名残りが世田谷のボロ市。明治中頃から古着が多くなりボロ市と呼ばれるように。今も年末年始に開かれており東京都指定無形民族文化財となっている。

ボロ市通りの先に「大山道と登戸道の追分」(右)があるが追分の石標に【ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す】と刻まれている。そういえば、先ほどの郷土資料館前庭に大山道道標があったっけ。

実相院旅人像追分のすぐ先を左に曲がると「実相院」(左)の山門が見えるが境内はうっそうと木々が繁り都会とは思えない静けさ。開基は 先に歩いてきた世田谷城の城主であった吉良氏朝。氏朝は豊臣秀吉の小田原攻めで城を明け渡し下総・生実に逃れたが後に世田谷に戻り実相院に閑居し天寿をまっとう。

街道に戻って4〜5分、ちょんまげの「旅人」(右)が一服しているではないか。最初は雨乞い目的の大山詣であったが いつの頃からか帰りに江ノ島・鎌倉を巡る物見遊山の旅に変化。そんな旅人が一服。

馬頭観音と地蔵尊大山道追分道標さらに5〜6分、街道際にあったのは「馬頭観音と地蔵尊」(左)。地蔵尊の台座は道標になっており【 世田谷道 ・・・・  大山道 】などの文字が読める。

街道はマンション前のケヤキ並木の下を通り国立医薬品食品衛生研究所前を通り坂道を下っていく。坂を下ると左からの江戸時代中期に開かれた新大山道と合流。ここに建てられているのは「大山道追分道標」(右)。

鎌田酒店鎌田酒店道標先の交差点を渡ると なんとも懐かしい金看板が。今日は定休日のため戸〆だが「鎌田酒店」(左)は創業150年の老舗。大山詣での旅人が多かった昔は店前に縁台を出し、おでんを提供したり雑貨を売ったりしていたそうだ。酒蔵の金看板は80年も前のものだとか。今は滅多に見られない風景となってしまった。
コメント:鎌田酒店はその後取り壊されマンションに代わっているので今は見られません。

芭蕉句碑無量寺の観音堂鎌田酒店のすぐ先を右に入ると真福寺の山門が見えるが山門を入った左手にひっそりと立っているのは「芭蕉句碑」(左)。
 みちの辺の 木槿(むくげ)は 馬に喰れけり  芭蕉翁

真福寺を出たらもう一ヶ所寄り道を。「無量寺の観音堂」(右)には天正年間(1573〜92)に品川沖で漁師の網で上げられたという観音様が祀られている。その観音堂は文政13年(1830)の建立。

本道と新道の追分笠付庚申塔街道に戻り高速道路の下を通り過ぎると道は二手に分かれるが、ここは大山街道の「本道と新道の追分」(左)。その真ん中に建つ地蔵堂には安永6年(1777)に用賀村の女念仏講中によって立てられた延命地蔵が鎮座。

今回の旅では右へ分かれる本道を行く。

住宅街の中を10分ほど歩き丁字路に突き当たったら右へ曲ると「笠付庚申塔」(右)が。 三猿の上に青面金剛が彫られた典型的な庚申塔であるが ちょっと豪華な笠付き。

慈眼寺仁王門慈眼寺坂庚申塔の先に真新しい「仁王門」(左)が見えるが ここは徳治元年(1306)、 法印定音の草創と伝わる慈眼時。当初は崖下に作られた小さな堂宇であったが天文2年(1533)に崖上の現在地に移転。

街道は慈眼寺から少し戻ったところの「慈眼寺坂」(右)を下っていくのだが 三軒茶屋で新道と別れ用賀で再び別れた今回の道は上町・慈眼寺線とも呼ばれている。


瀬田玉川神社玉川大師像 慈眼寺坂を下る途中の右手階段を上った先に「瀬田玉川神社」(右)が鎮座。永禄年間(1568〜70)の創建と伝わる当神社は御嶽神社と称していたが明治41年(1908)に現在名に改称。

坂を下り切って左に1〜2分歩くと通称玉川大師と呼ばれる玉真密院がある。ここには知る人ぞ知る地下霊場があり、暗闇の中の100mほどの間に八十八ヵ所のお大師様やお釈迦様の涅槃像があるらしい。地下霊場はパスしてしまったが境内に巨大な「大師像」(右)が。

筏道碑次大夫堀街道に戻ると すぐ先は治大夫(じだゆう)橋だが下を流れる川は「次大夫堀」(左)と呼ぶ六郷用水。(どういうわけか、橋は治、堀は次を使っている) 徳川家康が下流の六郷地方の米の増収を図るため五万石相当の土地を預かる代官・小泉次大夫吉次に命じて造らせた灌漑用水であることから次大夫掘と呼んでいた。

橋を渡った先の十字路にポコっと突き出ている石碑は「筏道碑」(右)。行き先は「右 むかし筏みち むかし 大山みち」。筏道は江戸時代に多摩川を下った筏師が帰路に歩いた道、いつか歩きたい道だ。

兵庫島若山牧水歌碑まもなく二子の渡し跡だがここでも寄り道を。向った先は多摩川と野川の合流点にできた中州の「兵庫島」(左)。正平13年(1358)、新田義興が従者13人と鎌倉へ向う途中、多摩川矢口渡しで敵の策略にはまり義興は自害。13人も討死にしたが その中の一人由良兵庫助の遺体がこの中州に流れ着いたという。

今は公園となっているが その一角にあったのは「若山牧水歌碑」(右)。
 多摩川の砂にたんぽぽ咲くころは われにもおもふひとのあれかし  牧水詠 旅人書

二子の渡し跡碑二子の渡し場跡付近東急田園都市線のガード下を通った先の玉川福祉作業所門前に「二子の渡し跡碑」(左)がひっそりと立っている。二子の渡しは当初 二子村が請け負っていたが天明7年(1778)に瀬田村にも渡し舟の許可が下り この近くに船着き場が設けられていた。その渡し舟は大正14年(1925)まで続いていたという。

「二子の渡し場跡付近」(右)を見たかったのだが工事中のため河川敷に入れず やむなく田園都市線二子玉川駅のプラットホームから撮影。望遠レンズを使ったがちょっと遠すぎた。

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