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赤坂御門から三軒茶屋
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三軒茶屋から二子の渡し(江戸初期の道)
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三軒茶屋から二子の渡し(文化・文政の道
)
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二子溝口宿
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荏田宿
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長津田宿
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下鶴間宿
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国分宿
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厚木宿
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宿愛甲
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糟屋宿
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大山阿夫利神社
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善波峠
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曽谷宿
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平安時代の道
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千村宿
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松田惣領宿
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関本宿
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矢倉沢宿
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竹之下宿
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御殿場
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裾野から沼津
M関本宿
せきもとじゅく
古東海道の坂本駅
(さかもとのうまや)
が置かれていたこの地は鎌倉時代頃より関本宿と呼ばれるようになり、
江戸時代に矢倉沢往還の宿駅に制定。また大雄山最乗寺道了尊の門前町としても賑わっていた。
旧宿場街の先からは足柄神社前を通って往時を偲びながら山中の足柄古道を歩くという楽しみがある。
街道地図
平成25年12月20日
松田惣領宿を出てかれこれ1時間。洞川に架かる橋場橋を渡ってすぐ先を右に曲ると
「屋敷塀の下に小川」
(左)が流れているという、なんとも良い雰囲気の景色。
その先の
藪通り
の坂を上ると福田寺の前に出るが入口に矢倉沢往還ではあまり見かけない石塔が2基。
「三界萬霊等と寒念佛供養塔」
(右)だが三界萬霊等(塔)は甲州街道で、寒念佛供養塔は中山道でよく見かけている。
両方一緒に見られるとは。
道路際にさりげなく立っている石仏が かつて多くの旅人がこの道を通ったことを教えてくれる。
ほどなく竜福寺交差点。ここでちょっと寄り道を。交差点を渡って右に曲り数分、
龍福寺
の境内にそびえる石碑は
「下田隼人碑」
(左)。広く知られた人物ではないが関本村の名主であった隼人は過酷な年貢取立てで一揆を起こそうとした農民を鎮め自らが直訴。願いは聞き入れられたが強訴を咎められ斬首。この碑の建立は大正11年
(1922)
。
交差点まで戻ると
「旅籠富士屋跡説明板」
(右)が歩道際に設置されている。実に詳しく書かれているがこれは 関本宿を語る会の皆さんが設置したもの。この先にも設置されており、宿場の様子がよく分かる。
語る会の皆さんが設置した説明板を元に地図を作りましたので歩くときの参考にして下さい。
次ぎの交差点まで来ると
「高札場跡」
(左)に高札が復元されており 定 が記されている。そこには「ととう
(徒党)
して ねがい事くわだつるを ごうそ
(強訴)
という」とある。江戸時代は厳しいねー。
すぐ先が
「本陣福田屋跡」
(右)。説明板によると元々の本陣というわけではなく小田原藩主大久保公宿泊にさいし本陣としたようだ。ちょっと面白いのが「当主が裃にて草餅に白砂糖をまぶし三宝にのせ差し出す」とある。この時代は砂糖が貴重だったのですね。
本陣跡から数分、右に曲る坂道を上った奥のテニスコート脇ににひっそりと鎮座しているのは
「お君塚」
(左)。鎌倉時代、坂本駅
(関本宿)
として栄えていた頃、教養あふれた歌声と美しい容姿のお君という歌姫
(遊女)
がいたそうな。
街道に戻り数分歩くと比較的新しい小堂の中に
「関本地蔵尊」
(右)が祀られている。この地蔵尊は江戸幕府が文化4年
(1807)
に編纂した「矢倉通見取給図」にも記載されていたという
関本地蔵尊の先、道路際に
「上宿の道祖神」
(左)が2基。語る会の説明板に夫婦道祖神についての面白い記述が。 「・・・また男女二人が仲良くしていて悪い神はアテられて逃げて行きますから・・・・」と。
その先数分、市営グランドの辺りは律令時代に制定された古東海道の
「坂本駅
(うまや)
跡」
(右)。足柄山の難所をひかえたこの駅には駅馬22頭を常備するという大きな駅
(うまや)
だった。
緩い上り坂をてくてくと十数分、街道から左に入った奥の弘行寺に寄り道を。ここに徳川家康の側室・お萬の方の母堂
「性殊院殿の墓」
(左)とされる五輪塔がある。
緩い上り坂はこの先もずっと続くが、5〜6分歩いたら弘済寺という看板に従って右に入り数分、
「弘済寺地蔵堂」
(右)には鎌倉時代から南北朝時代頃の作とされる
地蔵菩薩坐像
が鎮座。
街道に戻りしばらく歩くと真っ白いお地蔵様が。通称
「白地蔵」
(左)、またの名を化粧地蔵と呼ぶ地蔵様で安産と授乳に霊験あらたか。願いが叶うとお礼参りに うどん粉を塗りつけるのだという。万治2年
(1659)
の地検帳にこの辺りが化粧坂として記されていることからこの地蔵は室町時代以前から祀られていたのではないかと推測。
旧街道はその先のバス停刈野駐在所前から
「右の脇道」
(右)に入るといよいよ山中の足柄古道。
脇道へ入って数分、到着した場所は
「足柄明神」
(左)。かつては足柄峠に祀られた足柄明神であったが何度か遷座してこの地に。拝殿は比較的新しいが
本殿
は慶応2年
(1866)
の建築。ケヤキの白木造りだが獅子や龍の彫刻が施され素晴らしいの一言。
神社の一段下にひっそりと佇む御堂は
「足柄明神本地堂
(観音堂)
」
(右)。平安時代末頃から盛んになった本地垂迹説が延々と続いているもので、江戸時代は別当寺の弘済寺が管理。
本地垂迹説:仏が人々を救うために神に姿を変えて現れたという神仏習合の考え。明治の神仏分離令で衰退。
足柄神社から先は山中の足柄古道を歩くのだが長閑な雰囲気がなんともたまらない。途中、三叉路が何回かあるが、「足柄古道」と記された案内板が設置されているので迷う事は無い。
長閑な田舎道。
足柄古道の表示がある。
丁字路を左に曲がっていく。
杉林のの中を行く足柄古道
山並みの向こうに相模湾が望めるという、
大変景色が良い場所。
おっとー、行き止まりか? これは猪対策の
ゲート。カギを開けて向う側へ。
ここにも「足柄古道」の表示が。矢倉沢の
集落が近い。
ほどなく矢倉沢の集落が見えてきた。
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次ぎの宿場
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