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根府川通り 道中記

(1)小田原から根府川   (2)根府川から真鶴    (3)真鶴から熱海

(1)小田原から根府川まで 街道地図


根府川通りの出発点は東海道早川口交差点の手前から海方向に向かう道。
海岸沿いを進んだ根府川通りは途中から箱根山が海に落ち込む嶮しい崖地の中腹まで上り、
再び海岸沿いまで下るというアップダウンが激しい道。ミカン畑の中の農道は一部消滅部分が
あるため迂回を余儀なくされる場所もある。

令和元年12月6日

東海道線の小田原駅で下車、小田原城の前を通り国道1号に入ってしばらく歩くと最近では珍しい看板建築の商店があるが ここは関東大震災の次の年、大正13年(1924)に建てられた「片野屋呉服店」(左)。

店内に「豆相人車鉄道小田原駅付近の模型」(右)が展示されているので見学を。
明治の中頃から政財界の大物や文人が熱海の温泉地に盛んに訪れるようになったが嶮しい山道を越えなければならなかった。そこで登場したのが明治29年(1896)に小田原ー熱海間に開通した人車鉄道。 すぐ先の早川口が人車鉄道の小田原駅であったが そこに「小田原駅跡碑」(右)が建てられている。

小田原駅跡碑の前を左に曲がり数分、丁字路右側に「御厩小路碑」(左)が建てられているが、この辺りは小田原藩の馬屋があった場所。

丁字路左側の石柱は「西海子小路碑」(右)。この名は さいかちの木が立っていたことに由来するという。江戸時代末期には中級の家臣18軒の武家屋敷が道の両側に並んでいたが明治に入ると谷崎潤一郎、三好達治や坂口安吾など多くの文人がこの周辺に居を構え文筆活動が行われていた。

さらに4~5分歩いたら寄り道を。右へ曲がってさらに右側の路地を入った先の石垣内側は小田原城総構の虎口(城の入口)があった「早川口遺構」(左)。江戸時代の虎口は東海道に沿った板橋側であったが、ここは小田原北条時代の虎口。難攻不落と言われた小田原城の大きさが伺える

根府川通りに戻り高速道路手前を左に曲がると報身寺の参道前に出るが、その数分先にあったのは「平成輔墓所」(右)。平成輔は京都の公卿で烏丸成輔とも言われていたが後醍醐天皇の統幕計画に参加。だが計画が露見し六波羅探題に捕えられて鎌倉に護送途中の元弘2年(1332)、早川河口で殺害された。

早川を渡り 小田原漁港を迂回し国道135号を横断すると その先は鄙びた旧道が真っ直ぐ続いている。

しばらく歩くと小さな祠があるがこれは「東組道祖神」(左)。傍らに説明板があり縷々記されているが「東組道祖神の祀られた年代は不詳」とあり詳しいことは分からない。だが地元の人達からは殊の外大事にされているようだ。

道祖神の先を右に曲がり東海道線のガード下を潜ると眞福寺。その先に見えるのは「早川観音」(右)。御本尊は聖観世音菩薩立像。 制作年代は不明だが藤原時代(平安時代後期)の様式を持つすぐれた像で眞福寺の秘仏。ちょっと不便な場所だが人気があるようで参拝者が絶えない。

街道に戻り7~8分、道路際にある鳥居横の小さな祠は「小田原・早川の道祖神」(左)。祠の中にあるため見ることはできないが稲荷型道祖神といわれるもの。標柱に「小田原市指定文化財」と記されているが説明書きが無いため詳しいことが分からないのが残念。

鳥居を潜った先は貞観年中(859~879)の創建と伝わる「紀伊神社」(右)。祭神は五十猛命と惟喬親王(分徳天皇の第一皇子)だが土地の人からは「木の宮さん」と呼ばれ、箱根物産木工業の人達に崇拝されてきた。木地挽の開発者といわれる惟喬親王が天安2年(858)に京を追われこの地にたどり着き歿したが、その付き人がこの地に木地挽を伝えたという。

旧道は紀伊神社の先で国道に合流し鈴廣かまぼこ石橋店の裏を通った後、再び国道から分かれ旧道に入っていく。

旧道の坂道を上り東海道線のトンネル上を通った先に「石橋山古戦場跡碑」(左)が見える。源頼朝が平安時代末の治承4年(1180)、以仁王(後白河天皇の第三皇子)令旨を受けて挙兵。 だが石橋山の戦いでは平家方である大庭景親らの大軍に大敗。船で安房国へ落ち延びることになる。

古戦場跡碑前の坂を上った先の「佐奈田霊社」(右)は頼朝方の先陣で敵方に討ち取られた佐奈田与一義忠が神霊として祀られている。その亡骸を葬ったのが境内の一角にある与一塚

与一塚先の階段を下ると旧道に合流するが、そこに「佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)」(左)と記された標柱が建てられている。佐奈田与一はこの地で大庭景親の弟俣野五郎景久を組み伏せたが敵方の加勢により討ち取られてしまう。この地をねじり畑と呼ぶが この畑の作物はすべてねじれてしまうのだとか。

この数分先、階段上の御堂は佐奈田与一の家臣・文三家安を祀った「文三堂」(右)。文三家安は主人が討ち取られた後、敵陣に切り込み八人を討ち取って壮絶な戦死を遂げた人物。

旧道はこの先で行き止まり。ハイキングコースの案内に従って牧谷川方面に迂回する方法もあるが少々遠回り。ここは東海道線のトンネル上まで戻ることに。

東海道線に沿ってしばらく歩き米神集落まで来たらちょっと寄り道を。米神漁港前の八幡神社境内に座っているのは「合掌型道祖神」(左)。 伊豆半島でよく見かける丸彫り・座姿で 賽の神 とも呼ばれる道祖神。

この先から海岸を離れ山道を上るのだがこれが長い。30分ほど上るとやっと下り坂。下ったらちょっと寄り道を。
小田原市役所片浦支所脇を通って根府川駅前まで来たら左へ曲がり数分、東海道線を潜った先の道路脇に据えられているのは「根府川駅列車転落事故慰霊五輪塔」(右)。大正12年(1923)の関東大震災で起きた列車事故の犠牲者を慰霊するもので実業家の岡野喜太郎が昭和7年(1932)に建立したもの。

「根府川駅」(左)まで戻ると東海道線とは思えないひっそりとした木造駅舎が目に入る。
ここは関東大震災のとき発生した大規模な地滑りによる土石流で駅構内に入ってきた列車が駅舎やホーム諸共、海の中に没して百人を超す犠牲者が出たという痛ましい現場。改札口を入った左側の石碑は「関東大震災殉難碑」(右)。
この時は根府川地区や米神地区でも大規模な土石流が発生し多くの死者・行方不明者が出ている。

寄り道のつもりだったが せっかく駅に来たので今回は根府川駅から帰路に。

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