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根府川通り 道中記

(1)小田原から根府川   (2)根府川から真鶴    (3)真鶴から熱海

(2)根府川から真鶴まで     街道地図


根府川通りの旅、2回目は根府川から真鶴まで。
東海道線根府川駅の山側を通る根府川道は海岸近くまで下り再び山道を上って県道740号に合流。うねうねと
曲がる県道は標高100メートルほどの高台を通るため大変景色が良い。天気が良ければ丹沢山塊から江の島、
さらに房総半島まで一望。眼下を見れば海岸沿いの小さな集落と米粒のような車が見える。
真鶴駅の裏手まで来たら源頼朝に関わる遺跡がある真鶴半島に寄り道を。

令和元年12月19日

根府川駅を出たら駅前の歩道橋を渡り坂道を上って片浦小学校前で根府川通りに復帰。

数分歩いたら左手の細い階段を下ると「寺山神社」(左)の横。創建年代は不詳だが古くは寺山権現と呼ばれていた。この地は往古から根府川石の産地として知られており それを運ぶ石材運搬船に係わる人達が航海安全を願って七月に 鹿島踊りを奉納、それは今も続いている。境内に祀られている4体の道祖神(賽の神)が素朴でいいですね~。(冒頭写真)

街道に戻り坂道を下ってバス通りを横断。その先の岩泉寺は元々は海岸に近い白糸川沿いにあったが万治2年(1659)の大洪水で被害に遭いこの高台に移転。その岩泉寺境内から階段を下ると関東大震災の犠牲者を悼む「大震災殃死者供養塔」(右)がある。そこには・・・山津波起リ老若男女二百餘人殃死セリ悲惨ノ至リニ堪ヘ・・・とある。

岩泉寺を出て白糸川沿いまで下ると見えたのは「根府川関所跡」(左)の説明板。江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設けられたとされているが、東海道の裏街道ということもあって通行者も多く常駐する役人は箱根関所に次ぐ多さだったという。関所跡は関東大震災の山津波により埋没し今は川底になってしまった。

根府川通りは白糸川を渡って山道を上って行くのだがちょっと寄り道を。向かった先は釈迦如来堂。この地は先ほど寄り道した岩泉寺があった場所。境内の岩盤に「釈迦如来像」(右)が彫られていたのだが関東大震災の山津波で埋没。かつては見上げる位置にあったお釈迦様が今は地下深くの洞の中。掘り起こされたその御姿には微塵の損傷も見られない。

白糸川を渡って山道を十数分ほど登ると県道740号小田原湯河原線に合流。この先も緩やかな上り坂がどこまでも続く。

ほどなく見えたのは「天正庵跡」(左)。ここは天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原戦役の際、秀吉が千利休に命じて大野家の屋敷内に茶室を設けたところ。秀吉手ずから茶を点じ 徳川家康、織田信雄、細川忠興らに振る舞ったという。

天正庵跡から数分先を右に入った奥の「大美和神社」(右)は寛文11年(1671)の創建。この神社でも7月の例大祭には鹿島踊りを奉納。鹿島踊りは村に入ってくる悪疫も退散させる効果がある故、村の若い衆によって伝承されてきた。ここにも大震災記念碑がある。

江之浦測候所(実は美術館です)手前の丁字路際の石標は「小田原ミち」(左下)と刻まれた嘉永7年(1854)の道標。

その丁字路を左に曲がり数分、道路際のデッキから見る「江之浦俯瞰」(左)が素晴らしい。天気が良ければ丹沢山塊から江の島、さらには房総半島まで一望できる。眼下に見えるのは江之浦漁港。ここからの景色は「小田原ふるさとの原風景百選」に「東洋のリビエラ」として紹介されている。

江之浦測候所のすぐ先、階段上の石碑は「相翁松の碑」(右)。坪野平太郎(第2代神戸市長)、阪谷芳郎(第12代大蔵大臣)、添田嘉一(日本興業銀行初代総裁)の3人が若き頃、この地の老松の下で見た景色に感激。将来この地に碑を建てようと誓い23年後の明治40年(1907)に石碑を建立。

この先はうねうねと曲がる緩やかな下り坂。途中の見どころは少ないが道祖神(賽の神)が何体か見られる。

相翁松の右隣に2体。
後ろの崖上には庚申塔が1基。
真鶴町に入って10分ほど先、
三叉路際の植込みの中に
文字道祖神と賽の神。
県道から分かれ藪の中の階段を
下った先の十字路に笠付の地蔵、
いや、これはも賽の神。
西念寺本堂前の石像は
賽の神ならぬ阿弥陀如来でした。

江之浦俯瞰からかれこれ小一時間、寄り道予定の「真鶴半島」(左)が目の前に見えてきたが今日はあいにくの どんよりとした曇り空。写真写りが悪いのが残念。

真鶴に寄り道する前に西念寺に寄り道を。参道途中にあったのは「黒田長政供養碑」(右)。九州筑前の福岡藩初代藩主・黒田長政(黒田官兵衛の長男)の供養碑が何故ここに。 説明板によると家臣の小河織部正良が江戸城の用石をこの地で採掘。黒田長政の十三回忌にあたり小河織部正良が供養の石塔を建立。

ほどなく東海道線真鶴駅の裏に到着。真鶴半島に寄り道することにしたが真鶴は坂道が大変多い。そこで観光案内所で電動アシスト自転車を借りたのだが、これは想像以上に便利。
最初に向かった先は県道739号真鶴公園線 ではなく真鶴町役場に向かう下り坂。

真鶴町役場の反対側にある階段を上って行くと「石工先祖の碑」(左)がある。石材業を始めた土谷格衛らの業績をたたえ平安時代末期に石碑が建てられたが、現在の石碑は黒田長政支配下の石工の業績も加え江戸時代末期に再建されたもの。 階段入口の石碑は「石工先祖の碑」の説明碑。

役場前まで戻り さらに坂道を下って行くと左手の石塔は「謡坂之記碑」(右)。治承4年(1180)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は箱根山から逃れ房州へ船出したが、その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平が うたい踊ったという。この付近の地名「謡坂」はそれに由来する。

下り坂の途中にあった「道祖神(賽の神)」(左)は天保15年(1844)に祀られたもの。 この辺りの道祖神はどこも大変大事にされているようで いつも花や水が供えられているのが嬉しいね。

坂を下りきった右側の石碑は「源頼朝船出の浜碑」(右)。船出の浜碑の後ろにある石碑は「源頼朝開帆處碑」。すぐ前の浜は しとどの窟 で難をのがれ謡坂を下った頼朝一行が2艘の鮫追船で房州へ船出した浜と伝えられている。

船出浜碑前の十字路を左に曲がり自転車で2~3分走ると龍門寺の参道前。ここにある大きな「宝篋印塔」(左)は明和4年(1767)に龍門寺13世鳳州了悟和尚が人々の幸せな生活を願い建立。龍門寺は天正元年(1573)に林屋という僧によって中興開山された曹洞宗の寺院だが茅葺の本堂がなんとも良い風情。案内板に記された五層塔は山門手前の右側にある。
 
十字路まで戻り左に曲がると突き当りが駐車場だが その奥は廃寺となった如来寺跡。元和6年(1620)に建てられ 後に龍門寺の末寺となったが明治年間に廃寺。崖下の石窟には「閻魔像」(右)などの十王像と聖観音像や地蔵菩薩像などが安置されているが 地獄と天国を表現しているのだという。

県道まで戻り坂道を下って行くと真鶴港前。小さな公園の奥は源頼朝が隠れたという「鵐窟(しとどのいわや)(左)。石橋山の合戦で平家に敗れた頼朝は箱根山中から湯河原を経て真鶴に到着。鵐窟に身を隠し追手をやり過ごした後、7人の家臣とともに安房の国へ脱出。

数分先の階段上は「貴船神社」(右)。歴史は大変に古く寛平元年(889)の創建。由緒によると、真鶴岬の沖に楼船が近づいてくるので村の翁が船内を調べたところ木像十体余りと「この神を祀れば村の発展あり」と記された書状。その夜、翁の夢枕に現れたのは大国主神、そこで翁は村人と社を建て神を祀ったのが貴船神社の起源。

真鶴半島の先端まで行きたかったのだがちょっと時間が足りない。やむなく真鶴駅に向かったが、その途中にも「道祖神」(左)が。ここも大事にされているようだ。

その先左手は「荒井城跡」(右)。永保3年(1083)の 後三年の役 の際、源義家に従って活躍した荒井実継の居城であったと云われている。その後、源頼朝の家臣である土肥氏の出城となり 戦国時代には小田原北条氏の烽火台が置かれたと伝えられている。城址公園として整備されているが城跡としての遺構は見当たらない。
 

自転車を返すため真鶴駅まで戻ったので今回の街道歩きはここまで。

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