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根府川通り 道中記

(1)小田原から根府川   (2)根府川から真鶴    (3)真鶴から熱海

(3)真鶴から熱海まで 街道地図


根府川通りの旅、3回目は真鶴から熱海まで。

真鶴駅の裏手から長い坂道を海岸通りまで下ると湯河原町。しばらくは海岸沿いの国道135号を歩いた後、
旧道の山道に入るのだが ここは結構キツイ上り坂。 この山道は途中から消滅するため再び国道へ。
しばらく国道を歩き、伊豆山交差点まで来たら右に曲がって急坂を上り、さらに170段ある階段を上って
伊豆山神社にお参り。この後は長い長い坂道を下って熱海駅に向かう。

令和2年1月14日

真鶴駅裏の坂道を下って国道に合流したら右へ曲がると、吉祥院先の右奥に見えるのは「小道地蔵堂」(左)。元は背後の星ケ山中腹にあったが文永2年(1265)に焼失し貞享2年(1685)にこの地に再建。元の地蔵堂には源頼朝に係わる伝説が。治承4年(1180)、石橋山の合戦に敗れ箱根山中を逃げた頼朝主従は小道地蔵堂にかくまわれたが堂僧純海の命がけの庇護により平家方の追跡から逃れたという。

境内左手の高さ5m超という大きな「宝篋印塔」(右)は文政11年(1828)に造られたもので地蔵堂の由来などが刻まれている。境内にはこの他に明和2年(1765)の石碑や道祖神(賽の神)、延命地蔵なども。

小道地蔵堂の境内に道祖神(賽の神)が2体あるが地蔵堂休憩処前の歩道にも光背を持つ「道祖神」(左)が1体。この道祖神は台座部分に「右小田原」と刻まれ道標を兼ねている。

100mほど先、美容院前の歩道に白いプレートが埋め込まれているが書かれた文字は「豆相人車鉄道吉浜駅跡」(右)。説明文に「豆相人車鉄道の駅の一つ吉浜駅はここにありました。ちなみに、ここ小澤宅の屋号は 『テイシャバ』 と呼ばれていました。」とある。


100mほど先、英潮院入口の左側は「吉浜村名主向笠家跡」(左)。 入り口の説明碑によると江戸後期に全国を測量し正確な日本地図を完成させた伊能忠敬が 名主の向笠彦右衛門宅に享和元年(1801)と文化12年(1816)の2回宿泊している。

数分先を右に入った奥の「素鵞(すが)神社」(右)は元和6年(1620)の創建と伝えられているが詳細は不明。 8月の例大祭で奉納される鹿島踊りは文政年間に途絶えてしまった鹿島神宮の古い形式を最もよくとどめているということで国選択無形民俗文化財に指定されている。参道入り口の鳥居脇には7体もの道祖神(賽の神)が。(冒頭の写真)

さらに数分先を右に入った奥に見えるのは「風間不動堂と風間道祖神」(左)。不動堂は扉が閉ざされているが左の小窓のわずかに開いた隙間から中を覗くと2体のお不動様が鎮座。由緒ありそうだが詳しいことは分からない。

根府川通りはこの先で国道から分かれ旧道の商店街に入っていくのだが、その途中で路地を右に入った奥は「吉浜稲荷神社」(右)。この神社には次のような言伝えが。
源頼朝が真鶴から船で房総へ落ちのびる時、土肥次郎実平が「我が領する地の稲荷大善神が海上安全を守護し給う」と言上。後に頼朝公は「吾先年、海路無事であったのは稲荷大善神の功徳なり」と実平に稲荷堂宇の建立を命じたという。

根府川通りは国道から分かれ新崎川に架かる真砂橋を渡って「旧道の商店街」(左)に入って行く。いかにも「旧道」そんな雰囲気がある商店街だが人通りが少なくちょっと元気がないのが残念。

なんとも懐かしい「金文字看板」(右)がありました。 月桂冠 キリンビール ハクツル と記された金文字は最近では滅多に見られなくなった貴重品。

商店街を真っ直ぐ進みバス通りを横断し 突き当たったらちょっと寄り道を。
左に曲がると八幡神社の前に「門川の道祖神」(左)が6体。根府川辺りから見られ始めた道祖神(賽の神)はいずれも伊豆型と呼ばれる丸彫りの坐像。赤い涎かけが付けられ大事にされているようだ。

そのすぐ先、国道から一歩下りた駐車場辺りは「門川村名主富岡家跡」(右)。向笠家跡と同形の説明碑が建てられているが、それによると、「伊能忠敬が富岡家で昼休みを取った際、土肥実平の子孫という名主から源頼朝を助け鎌倉幕府を成立させたという話を聞いて感動し、土肥一族の墓参をした」というようなことが記されている。

さきほどの突き当りまで戻ると 「豆相人車鉄道門川駅跡」 と記されたプレートが道路に埋め込まれおり、次のようなことが記されている
「ここは湯河原温泉への下車駅で、駅前は温泉場行きの人力車や馬車で賑わっており、向かい側には春日屋という旅館があった」。

根府川通りはこの先で国道に合流し10分ほど歩くと「そば処 加賀」の看板が見えるのでその手前を右に曲がり山道へ入って行く。10分ほど登るとミカン畑の間から見えるのは湯河原の町並みや真鶴半島の「素晴らしい景色」

山道をしばらく歩くと十字路の向うに廃車が4~5台並んでいる。その前の道を下って数分歩くと丁字路にぶつかるが その先は道が消滅。仕方ない、もう一度国道に出て伊豆山神社に向かうことに。
その途中にあった石塔は正面が剥落しているが破片の文字をつなぎ合わせると「萬霊塔」(右)と読める。裏面に大正十二年九月一日大震災惨死者とあり、道路工夫、軽便鉄道工夫などの名前が多数刻まれている。痛ましい犠牲者だ。

萬霊塔から10分ほど歩くと右手高台に 見えるのは「熱海身代わり不動尊」 の華やかな建物。さらに5~6分歩くと「伊豆山神社参道」と刻まれた大きな石標があるのでここを右へ。
急坂を10分ほど上ると消滅した旧道の延長上に合流し、さらに5分ほど歩くと伊豆山神社の参道に到着。が、神社は170段もある階段の上、真鶴から歩いてきた足にはちょっとキツイ。

「伊豆山神社」(左)の創建年代は不詳であるが社伝によれば孝昭天皇(紀元前(475~?)の時代とされる大変な古社。 源頼朝とも縁が深く、頼朝が伊豆・蛭ケ小島に配流された際には源氏再興を祈願した神社でもある。 また、後に結ばれた北条政子との逢瀬の場でもあった。

その頼朝と政子が恋を語らった場所が境内の左手にある「頼朝・政子腰掛石」(右)。
この社で結ばれた二人は伊豆山神社を崇敬し伊豆山の神の力をもらって鎌倉幕府を開くことが出来たのだという。

参道の階段をバス通りまで下ると その先にも「参道の700段近い下り階段」(左)が続く。海岸近くまで下った所に日本三大古泉の一つ走り湯があるのだが下ったらまた上らなければならい。今回はパスだ。

バス通りを5~6分、左に下る階段があるが下りた先の石橋は「逢初橋」(右)と呼ばれる頼朝・政子に縁の橋。治承2年(1178)、北条政子は親の定めた山木判官兼隆との縁談を嫌い婚礼の夜に宴席を抜け出し伊豆山に逃げたという。この知らせを受けた頼朝が急ぎ駆けつけ政子と劇的な再開を果たしたのが逢初橋なのだとか。

この先は岸谷町の祠や庚申塚などを見ながら坂道を下ると熱海駅。 今回はここで終了としたが、根府川通りはさらに熱海峠を越え函南町を経て下田街道の大場宿に
下って行くが残念ながら途中の山中に消滅部分がある。大場から先は下田街道を上って三嶋大社前で東海道に合流。

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